沖縄を深く知るためのガイドブック
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代表の編集雑記帳

台風5号の接近と改造安倍内閣の発足

 

 8月4日、沖縄・那覇市では空に青空も垣間見えるが、朝から強い風が吹き独特の雰囲気に包まれている。ざわざわとした胸騒ぎが巻き起こり、台風が近づくことを感じる。汚れや穢れを吹き飛ばし流し去る予感が漂う。

 

 昨日、改造安倍内閣が発足した。波乱を感じさせる展開そのものは、時の政権が好き放題に振る舞える安倍一強の状況に比べて好ましいと思うが、わが国の民主主義を支える制度づくりという面では変化はなく落胆を感じえない。もともと、政権を揺るがした加計学園や陸自日報などの問題の根本には、情報公開・公文書の管理や第3者による公正な調査があったはず。

 結局、これらの問題をめぐり、政権に批判的な立場な人々と政権の間で水掛け論に終始して真実が見えなかったのは、担当者は「記憶にない」を繰り返し、客観的な公文書について「破棄された」「見当たらない」の回答ばかりだったせいである。疑惑に対する調査らしきものもあったかもしれないが、政権側や同じ行政部署が担当していて、とても第3者による公正な調査とは呼べず、客観性は感じられない。

同じ轍を踏まないためにも、公的な記録の管理と公開をしっかりするとともに、疑惑がある場合、第3者による調査委員会を設置するなどの制度を整えなければならない。情報の透明性を高めることは、民主主義を支える根幹である。ところが、テレビのインタビューや記者会見を聞くかぎりは、安倍首相をはじめ新しい閣僚や党幹部が、情報の透明性を高める具体的な仕組みづくりに触れることはなかった。「国民に丁寧に説明したい」という漠然とした努力目標だけである。

昨夜のNHKニュース番組に安倍首相が出演していたが、首相が情報公開に関する仕組みづくりに触れることはなかった。NHKのキャスターからも、首相が困るような質問は出てこない。「加計学園理事長と個人的に会って、獣医学部の新設について話していないとおっしゃっていましたが、だとすれば、どのような話をなさっていたのですか」など、むしろ「疑惑晴らし」を助けるような質問さえしていた。国民が聞きたいのはそんな話ではないとツッコミたくなる内容である。









遠くなりゆく戦後と戦跡

 『消えゆく太平洋戦争の戦跡』が山川出版社から発刊となった。沖縄の戦跡を担当させていただいた。現実の戦跡をめぐり、本書の戦跡の写真や文書を読んでいると、事実が刻まれたモノがいかに歴史を力強く物語るか、改めて感じた。実際に戦争を体験した人々が高齢化し他界し、直接、伝えることが難しくなっている今、戦争の現場に立って当時のモノに触れ、資料などをもとに想像力を働かせることが、数少ない戦争に迫る機会だろう。

 ただし、本書の中で説かれているように、その戦跡も時間の波にゆっくりと洗い去られつつある。戦跡がコンクリートや金属でできたモノだとしても、積極的に守ろうとしないかぎり、時間とともに朽ち果てる。草木に覆われ人の目に触れなくなる。

子供の頃、終戦記念日の前には、戦争に関連したTV番組や出版物が企画され、独特のムードが立ち込めていたが、最近は戦争関連の企画が出されることはめっきり減った。だんだん忘れ去っていくというよりは、日本の負の遺産を刻んだモノたちは消し去り「未来志向でいきたい」という積極的な意識が働いているのだろう。
















盛り上がらない那覇市議選

 先日の都議選は、自民党が歴史的な大敗を喫し大きな話題となったが、7月9日に投開票を迎える那覇市議選はほとんど盛り上がっていない。築地市場の移転という課題を抱えた上、国会議員の不祥事が続き、都議選が注目を集めたのは例外であり、大半の自治体関連の選挙は「あるのか~」くらいの関心しかない。8日の地元紙でも、お決まりの「あす投開票」の記事が載るくらい。投票によって何が変わるのか、何が争点なのか、まったく見えない。

 しかし、限られた自治体予算の中で、解決しなければならない課題は山積み。当たり障りのない言葉を並べ、どれだけ自治体のために働いているか分からない議員を、莫大な予算を使って選び議員の地位にとどめる余裕はないはず。インターネットの力が増す時代、メディア、特に凋落が叫ばれる活字メディアの活躍が期待される。何が重要課題か、争点か示す役割を果たすべきだろう。役所の発表やテレビ番組における著名人の発言を記事にするだけだったら、テレビやインターネットにスピードで負ける。ニュースや課題の掘り起しこそ、活字メディアが強味を発揮できる分野であり、生き残りの場所である。









トランプ流がはびこるグロテスクな時代

 

 連日雨が降り梅雨明けが見えない日々。いつものように朝、散歩をしていると、2匹のアフリカマイマイが道を横切っていた。沖縄に住んで間もないころならば、おおぶりでグロテスクなカタツムリにどきっとしたものだが、今では何とも思わない。

 人間界でもグロテスクな物言いが日常と化している。アメリカで大統領候補としてトランプ氏が世に出始めたころは、敵対する者たちからの指摘を「でたらめ」「まったくのウソ」と粗っぽく切り捨てる彼の対応に驚き、「こんな人物は世の良識に叩きのめされ、すぐに抹殺される」と高をくくっていた。ところが、トランプ氏は大統領になり同様の対応を続けても、世間から抹殺される気配はない。

 日本でも似たような現象が起きている。「森友学園問題」に続いて「加計学園問題」をめぐる疑惑が持ち上がっても、政府は判で押しように「法に則って適正に行われた」を繰り返すばかり。最近、与党幹部は、メディアや野党からの追求を「ゲスの勘繰り」と揶揄し、疑惑を持つ方がおかしいという態度。まったくの想像だけの疑惑だけならともかく、合理的な疑いを持てる資料や証言がそろっているにもかかわらず、である。

 真偽はともかく自信を持って言い切り、敵対勢力の主張をつっぱねる。もし、都合の悪い証拠や証言が出たら、その時、適当に言いつくろえばよい。とにかく言い切った者の勝ちなのだ。合理的な疑いに対する誠実さや謙虚さのかけらもない。声の大きな者や、大きな権力を持った者の強引な発言が通るグロテスクな時代である。もちろん、そうした人物を生み出し自由にさせているのは国民であるが。

 











謙虚さが失われて深まる権力者と忖度の関係

 6月8日、ロシア干渉疑惑について米国のコミー前FBI長官が証言したが、これに関して日本のテレビ番組で法律の専門家が口にしたコメントに違和感を覚えた。前長官はトランプ大統領と2人きりで会い「(捜査について)大目にみてほしい」と言われ、「私が必要なのは忠誠心」などの電話を何度も受けたと証言したことについて、専門家は大統領からの「命令」や「指示」はなく司法妨害があったと判断できないと語っていた。

 確かに言葉の上では「ほしい」は願望であり命令や指示ではない。しかし、自分の人事権や解雇権を握っている上司から、「ほしい」と言われたら事実上の命令と受けとらざるをえない。組織の中で働いた経験のあるものならば、簡単に分かるはずである。おそらく専門家も分っていても、法律としてはこういう論理という意味でコメントを出したのだろう。報道を聞くかぎりでは、米国でも同様の受け止め方をしているようだ。

 法律は権力者に都合よくできていることを実感する。権力者は、持っている権力を使って、直接的に命令や指示をしなくても、いくらでも自分の意志や希望を伝える方法がある。後から、何か問われても、自分は命令も指示もしていないと言い逃れできる。権力者は本来、持っている権力の強さゆえ、たとえ本人にその気がなくても、ちょっとした言動が介入と受け取られかねない。トタンプ大統領の例では、そもそも捜査の独立を守り誤解を招かないため2人で会ったり電話をかけたりしない謙虚さが求められるはず。

 それにしても、米国議会は与党共和党が過半数を占めているにもかかわらず、FBI前長官の議会証言を実現し真相究明をしようとしているところは民主主義国家である。時を同じくして日本でも、国のトップの政治介入が疑われる事件が発覚したにもかかわらず、告発した前文科省事務次官の議会証言をはじめ真相解明の動きはほとんどみられない。与党側は「必要ない」を繰り返すばかりである。まだまだ米国に民主主義のあり方を学ぶ必要があるといわざるを得ない。















疑惑を追及する日米メディアの差

5月26日夜のNHKニュースを見ていたら、首相の加計学園をめぐる疑惑について、与野党の反応・応酬を淡々と伝えるのみ。ほんの数カ月前まで当事者であり事務方の最高責任者である事務次官が「行政が歪められた」とはっきり断言し、この証言を支える状況証拠も少なくないことを考えれば、もっと踏み込んだ取材するべきだろう。その少し前に番組内で、米国メディアが外遊中のトランプ大統領に対しロシア疑惑をしつこく質問する映像を流し「アメリカに戻ったら、もっと激しい追求が待っているでしょう」などと解説していた。同じメディアとして疑惑追及に大きな開きがあり、自分たちで話していて恥ずかしくならないのだろうか。まったく同じパターンの政治疑惑が繰り返されることはないから単純な比較は難しいが、NHKに限らず日本の大手メディアは過去の政治疑惑に比べ腰がひけぎみのところが多いような気がしならない。





















監視社会と日本

 首里城公園では、守礼門をはじめ城内施設に何か液体がかけられる事件が起きた後、各所に監視カメラが設置された。今のようなご時世、人の目でずっと見張っているわけにはいかず、カメラ類は犯罪の抑止や捜査のために必要なのだろう。ただ、無制限に監視システムを広げることには頷けない。膨大な監視記録が蓄えられていくだろうが、どこまで記録し、どのように使われるのか、いつまで保存されるのか、一般庶民にはガイドラインが示されていない。もともと、日本は他人の仕草、服装、言動の細かいところまでチェックする文化を培ってきて、息苦しい人間関係が築かれやすい土壌があることを忘れてはならない。

 5月19日に衆議院法務委員会を通過した組織犯罪処罰法改正案についても同様の不安がある。テロの危険に対処するためと「テロ等準備罪」を新設するそうだが、メディアの伝え方の問題か、法案自体の問題か、こちらの理解が足りないのか、この法改正がどのようにテロの阻止に役立つのか見えてこない。具体的な仕組みが分からない。テロの対策をしなければならないというムードばかりが先行する。一般庶民が「テロ等準備罪」の対象にすることはないと政府側は繰り返す。しかし、時の権力者に批判的な勢力を監視し弾圧してきた歴史がこの国にはあるだけに、明確なガイドラインづくりなしには信頼は得にくいだろう。














沖縄を語る難しさ

 

 原田マハ著『太陽の棘』を最近読み終えた。本書は、太平洋戦争の終結まもない沖縄が舞台であり、主人公である米国の新人軍医と、理想に燃える沖縄の若い芸術家たちの交流を描いている。まず感じたのは、沖縄県外出身者が沖縄を語ることの難しさである。

明治時代に琉球王国が解体され日本に併合されたことや、太平洋戦争では事実上、本土防衛のための「捨て石」されたことや、戦後は米軍基地負担にあえいできたことなどは、沖縄について作品を書く場合、直接触れなくても意識せざるを得ない。

だが、意識しすぎると、本土・米国=「侵略者」「搾取者」、沖縄=「被害者」のお決まりの構図にはまる。また、最近は沖縄の基地反対派=「親中派」というレッテル張りも少なくない。いずれにせよ、非常に分かりやすいけれども、紋切型の構図をなぞるだけで、奥行きのある現実は見えてこない。

 その点、『太陽の棘』は、直接沖縄戦に参加した兵士ではなく、戦闘とは無関係の軍医という視点で、芸術を軸に物語が展開するため、紋切型の対立構図に陥ることを避けられている。筆者はもともと沖縄を描こうとしたというよりは、たまたま描きたいテーマが沖縄に関係していたことから、このようなユニークな視点を手にしたのだろう。

こうした小説の手法とは逆に、紋切型や「分かりやすさ」を求める動きは今後、一層強まるだろう。時代の変化や暮らしの慌ただしさに疲れ、複雑な現実を複雑なまま受け入れられなくなっている。分かりづらい現実に苛立ち、「もっと分かりやすい言葉で、すぱっと言い切ってくれ」「もっと憂鬱な気分を晴らせてくれるような言葉をばらまいてくれ」と叫ぶ。

その端的な例が、ツイッター1本で「敵」を攻撃するトランプ米国大統領だろう。現実は複雑に絡み合っているにもかかわらず、その複雑さは全部削ぎ落として百数十文字に単純化して「敵」にレッテルを張る。しかも、反論や異論は受け付けず言いっぱなし。非常に乱暴で無理の多い主張ながら、このツイッター攻撃が一定の成果を収めているということは、相当数の人々が支持しているからに違いない。今後、トランプ大統領のミニ判がメディアに増殖し続けるだろう。









「火花」に感じた太宰の影

久しぶりに若手作家の小説を読んだ。お笑い芸人として初めて芥川賞をとったと話題になった又吉直樹氏の『火花』である。まず思い出したのは、高校生生活で、悶々として暗く閉ざされた気分の中、やり場のないエネルギーが内側から湧き起こる日々、愛読していた太宰治だった。

あの頃はやたら劣等感が強く、うまく立ち回れない自分に悩む。しかし、その劣等感を隠すことのなくあけっぴろげにみせる太宰の作品は、時に自堕落で破滅的であり前向きの言葉はないにもかかわらず、何か救いを感じることができた。今の自分を苦しめているものが何かが分かり、自分以上に苦しむ人間がいたと知るだけでも、ほっとする。こうした太宰作品の底流と同じものを又吉氏の作品にも感じた。

気になったのは今の若い世代の間でも、同様の共感が『火花』についてあるのかどうかである。200万部以上売れたといわれるが、買ったのは主にどの世代だったのだろうか。先日、NHKで小説二作目と格闘する又吉氏を追ったドキュメントが放映されていたが、その中で、『火花』について若い世代から「分かりにくい」という反応があったことを又吉氏が気にしていたことを伝えていた。

太宰を好んだ者にとって非常に分かりやすい内容である。小説としても難しい表現は使われているとは思えない。それを「分かりにくい」と評するのは、内容が難しいというよりは、登場人物の行動や感じ方、考え方が分かりにくいという意味ではないかという気がする。ただ、番組の中では「分かりにくい」とだけ表現されていたので、正確な意味は分からない。今の若い世代が『火花』をどう受け止めたのか興味のわくところである。











雰囲気重視の就活

 仕事の関係で、企業合同説明会に参加する学生に話を聞く機会があった。何を基準に就職先を選ぶかと尋ねると、みな「職場の雰囲気」「働きやすさ」と答えていた。社会人になったら「尊敬される人」「みんなで成長できる人」「他人の気持ちに寄り添える人」になりたいと語っていた。30年前、自分が就職活動をしていた時には思い浮かばなかった言葉であり、周りの友人らからも耳にしなかった言葉である。

 30年前、日本はバブル景気に沸いていたといわれるが、あまり実感はなく恩恵を被った意識も持っていなかった。しかし、就職活動はかなり楽観的でいられたかもしれない。すぐに就職しなくてもなんとかなる。自分の能力を生かせる場を探すべきであり、自分を安売りしてはいけない。仕事に就けば、その世界ではひとかどの人物となる。職場の人間関係なんて気にもしていなかった。自分の能力と努力によって、ブルドーザーで余分なものをなぎ倒すように進んでいくのみ。

 ところが、今の時代は、どんどん会社が成長するとか、自分の可能性が広がっていくとか楽観的になれない。それほど豊かといえなくても、良好な人間関係の中で心地よく仕事ができることを大切にする。あまり遠くを眺めず、日々の暮らしや足元をしっかり見ているのだろう。生まれた時から、生活に必要なものは大抵満たされる一方、5、10年先に日本の社会や経済、企業がどうなっているか見通せない上、「人口縮小社会」の暗い未来予想図が繰り返しメディアで流されていることを考えれば、「職場の雰囲気」「働きやすさ」重視に傾くのも当然かもしれない。














日本の働き方と休み方を考える

 来春卒業予定の卒業生に対する企業の採用活動が今月から解禁となり、就職活動がスタートしたが、報道などによれば、好景気による売り手市場のおかげもあって、近年の学生たちは残業時間や有給の取得など、どれだけプライベートの時間を楽しめるかが仕事選びの重要な判断材料になっているという。

 日本も少しずつ成熟社会へ向かい、仕事一辺倒ではなく、家族や友人と過ごしたり趣味や余暇を楽しんだりする時間に重きを置こうとしているのだろう。過労から心を病んだ若者が自殺したニュースなども仕事のあり方を考え直すきっかけになったかもしれない。

 ただ、どう働き休むかは、大企業トップや政府の旗振りばかりが目につく。会社を早引けして家族・友人との時間や余暇を楽しもうとすれば、前月から始まった「プレミアム・フライデー」のように全国一斉に同じ日にするのではなく、各自の判断や都合によって決めるのがベストのはず。しかし、自分一人だけやれば、わがままでサボっているように思われないか心配だから、全国一斉にやらないと踏み切れないのだろう。

 もともと、日本人は退社したり休んだりする場合、周囲と歩調を合わせようとする傾向がある。周りが休まないと自分も休みにくいから、米国などと比べ同時に休める祝日が多いといわれる。仕事上の取り引きの関係もあり、祝日は休みやすいかもしれないが、国民が一斉に休日をとるため行楽地や娯楽施設は混雑し、ゆったり楽しむことが難しい。本当に人生を味わうような働き方と休み方をするには、それぞれの判断を尊重する雰囲気づくりが欠かせないだろう。









むなしく響く「プレ金」

 2月24日は初めてのプレミアム・フライデー、「プレ金」だったそうだ。メディアでは、会社を早くひけレジャーや酒場に繰り出そうと呼びかけていた。わくわく感の演出である。確かに、この世は一時のまぼろし。騙されてほろ酔い気分の幸福感を味わうのも悪くないかもしれない。

しかし、今回の「プレ金」にしろ、これまでの「1億総活躍社会」や「美しい日本」「日本を取り戻す」にしろ、政府の掛け声ばかりがむなしく響きわたり、何を変えようとするのか、何が変わるのか、漠然として気分は冷めていくばかりである。すべてがバラ色になるようであるが、今どきの子供でも、短期間のうちに世の中がガラッと変わるとは信じまい。そんな簡単に変わるのだったら、これまでの政治家は何もしていなかったことになる。

ただ、「1億総活躍社会」に比べれば、「プレ金」は現実的かもしれない。月に1度、3時間ほど終業時間を繰り上げればいいのだから。それでも、今の日本の働き方の構造を根本から変えない限り、3時間のしわ寄せはほかの日に乗せるだけである。政府が大企業に賃上げを要請して「給料アップ」を演出しているのと同じ構図である。下請け企業へのしわ寄せはないのか。表向き聞こえのよい話には、どこかに無理があり被害者がいないか注意すべきだろう。












「安保条約5条適用」は手柄か?

 2日3日、午後7時からのNHKニュースを見ていたら、訪日中のマティス米国防長官は安倍首相との会談で、尖閣諸島が日米安保条約第5条の適用範囲と明言したというニュースが、速報テロップで画面上を流れた。米国による日本の防衛義務に尖閣諸島が含まれることを意味するが、速報として伝えるべき内容だろうか。強い違和感を覚えずにはいられない。

 尖閣諸島の第5条適用については米国の大統領や閣僚が繰り返し明言してきたことであり、特別目新しいことではない。トランプ政権になって最初のこととはいえ、大げさに報道することは安倍首相の手柄のような伝え方である。さらに、第5条適用とともに中国の海洋進出や北朝鮮の脅威を強調する発表をそのまま報じており、外に敵をつくって国内のナショナリズムを煽り、政権の支持率を高めようとする手法(トランプ政権とまったく同じ手法)に加担しているのでは、と疑いたくなる。

 第5条適用にくわえ、中国や北朝鮮への対抗意識を繰り返すことは、外交政策の機能不全が隠れているのではないだろうか。安倍首相はアジアをはじめ世界各国を回って外交成果を唱えるが、最も課題の多い中国や韓国では関係改善があまりみられない。難しい問題山積で重要な地域は避けて、あまり複雑な問題のない地域ばかりを相手にしている。長年の懸案の北方領土問題についても、結局はロシアとの交渉で具体的な前進がない。こうした課題隠しにマスコミも加担していないだろうか。






旧正月と立ち飲み屋

旧正月にあたる1月29日、那覇市の牧志公設市場のあたりをぶらついてみた。何か旧正月の雰囲気を感じられるものがないか探すためである。さらりと眺めただけだが、これといって旧正月にまつわる催し物や飾り付けは目につかなかった。公設市場そのもののほか何軒かの店が旧正月を理由に店を閉めているだけだった。

 それにしても、公設市場周辺には立ち飲み屋や、路上にテーブルや椅子を並べたカフェテリア方式の店が増えたと思う。一年を通して暖かい沖縄では、このように開放的な店は合っているのだろう。飲んでいる姿を道の通行人に見られることを気にかける人が減っているせいもあるのだろう。また、居酒屋の奥でどっしり腰を据えて飲むよりも、店の外側に近いところで「ちょい飲み」をする楽しみも浸透していきているのかもしれない。







5地域の出版人が沖縄に集結

中国、日本、韓国、台湾、香港の出版人が意見を交わす「東アジア出版人会議」が111415日、宜野湾市のコンベンションセンターで開かれ、沖縄の出版人の端くれとして参加した。沖縄で同会議が開催されるのは初めて。同会議の10周年を迎えるにあたり沖縄開催を決めたという。

今回のテーマは「出版の地域性と書物の普遍性」。地域性にこだわった出版が多い沖縄を意識したテーマだろう。実際、沖縄の出版関係者からは、地元読者向けの本づくり「知の地産地消」が繰り返された。他県から地理的にも心理的にも遠く隔たっている沖縄では、県内の読者を中心に考えざるを得ず、結果的に県外でも受け入れられたらよいくらい。

「地域性」が出版活動に深く影響するのは他地域でも同様なようだ。台湾や香港のように、比較的マーケットが限られた地域では、独自性や地域文化にこだわりながらも、中国本土をはじめ他地域のマーケットも意識した本づくりを目指す。一方、中国本土では、「地域性」はあまり大きな問題でなく、良い物を出せば読者に受け入れられて売れる。ただそれだけとでも言いたいらしい。14億人近い巨大マーケットを抱える自信であり、建て前を崩せないお国柄もあるかもしれない。紙媒体の減少や読者の活字離れといった出版業界の悩みについても、日本をはじめ他地域の出版人が方向性を見いだせないのとは対照的に、中国本土の出版人の発言には「良い物を出すだけ」の原則が色濃かった。







リオ五輪は単なる反面教師か

リオデジャネイロ五輪が始まった。今のところ、日本の報道では治安の悪さや準備不足、政治経済の不安定などマイナス面ばかりが伝えられている。無秩序や混乱は別の角度からみれば、多様性やダイナミズム、寛容の表れとも読める。

私がリオデジャネイロを訪れたときも、麻薬組織が潜むファベーラ(貧民窟)へ軍が装甲車などを引き連れ突入し、観光客らがよく強盗に襲われるなど治安の悪さが騒がれたが、危ない地域に立ち入らず、身を守るルールさえ頭に入れておけば、美しく楽しい街。大らかな、自由な雰囲気が満ち溢れていた。

日本のように何事も計画どおり進め、秩序や決まりに従うことにばかり気をとられていると、社会は多様性や自由を失い息苦しさが立ち込める。最近のテレビ番組は意図するかしないかはともかく、結果的に日本を自画自賛する内容が目につく。自国の社会や文化を再発見することはよいことだろうが、失ったものや欠けているものにも素直に向き合う謙虚さが必要だろう。








セミと大橋巨泉と参院選

セミの大合唱の季節である。小さな体のどこにそんなエネルギーがあるのかと思うほどの大音量である。「俺の人生、どんな意味があるのか」などと考える暇はない。短い生の季節に、子孫を残すために力のかぎり鳴き続けるしかないのだろう。

 先日、雑誌で大橋巨泉氏のコラムを読んだ。がん闘病のために体力と気力を失い、自ら最終回を宣言していた。医師ら周囲から病状を宣告され、本人も十分それを認識していることがコラムから分かる。徐々に迫ってくる死という巨大な闇を前にした無念や恐怖は、私ら平穏な暮らしを送る者には想像できないものがあろう。

十数年前、彼が民主党から参院選に出馬する会見をロサンゼルスで開いたことを思い出した。彼の拠点がカナダにある関係で会見場が決まったらしい。当時、私もロサンゼルスに住んでいたため、会見に参加した。衛生中継のようなもので日本とつながっていて、党首の鳩山由紀夫氏とやりとりしたが、軽快な口調で巨泉氏が鳩山氏に注文をつけていたことが印象に残る。

 しかし、当選したものの数カ月で議員辞職した(ネットで検索したら2002年1月らしい)。辞職にあたっての彼の弁明をテレビで見たような気がするが、彼ほど知識や見識があり弁がたつ人間でも政治の世界に入ると身動きがとれなくなるようだ。彼が辞職したときから10年以上がたち、さらに政治の硬直化が深まっていることを考えると、暗雲たる気持ちにならざるを得ない。













選択に挑んだ英国と選択を避ける日本


 6月22日に公示された参院選が盛り上がっていない。理由ははっきりしている。何を基準に投票したらよいか分からないからだ。一応、争点として「アベノミクス」を与党側はあげているが、「アベノミクス」とは何か示されていない。おそらく、国内に金をジャブジャブと出回らせ、円安株高を招くことではないかと思う。しかし、これは一時のカンフル剤であり、選挙の争点になるようなものではない。それが証拠には、中国経済の減速や英国のEC離脱といった不安要因が顔を出すと、頼みの株高は低迷し経済は足腰の弱さを露呈する。

「アベノミクス」というカタカナ文字を使うことによって、漠然とした「成長」のイメージをまとわせ、本質を隠す。おそらく安倍政権側は、意識して使っているだろう。メディア側は、意識するか意識しないかはともかく、そのまま使い政権のイメージ戦略に加担している。争点になりそうなTPPや憲法改正は、反発を恐れて争点にせず、メディアもあえてひっぱり出そうとしない。

一方、自分の国の選挙でもないのに、参院選以上に関心を集めたのは、ECからの離脱をめぐる英国の国民投票である。その理由は、日本や世界の経済に及ぼす影響もあるが、争点が非常にはっきりしているところもあるだろう。日本は選挙の争点が、日本語とも英語ともいえない「アベノミクス」という不明瞭なカタカナ語に対して、英国は争点が「残留」「離脱」という明確な日本語で説明できるところは何とも皮肉であり、両国の政治状況を端的に表すかもしれない。英国では国を二分する国民投票の前にできることはなかったのか問題点もあるが、明確な選択肢を国民の前に示し、開かれた議論する手法は日本も学ぶべきところは多いのではないだろうか。








振り払えない成長幻想

 

 6月1日に安倍首相が消費税増税の再延期を表明、201411月に「増税を再延期することはない」と断じた首相自身の言葉をひっくり返したが、その後、マスコミでこの問題を厳しく追及する動きはみられない。

 こうした空気の背景には、アベノミクスへの期待というか、日本は高い経済成長を復活させアジア最強国家に返り咲けるという幻想が国民の間に深く浸透しているような気がしてならない。安倍首相は、この幻想を政策や政権イメージに巧みに取り込んでいるともいえよう。高度経済成長期の日本を象徴する田中角栄の本がよく売れているのも、「成長する日本」への郷愁であり幻想であろう。

 しかし、バブル崩壊以降、20年以上、日本経済は成長から遠ざかっている。「景気テコ入れ」を連呼して日本各地に公共投資資金を注ぎ込み、さらに「構造改革」「競争・自由化」「グローバル化」も取り入れ、国が1000兆円を超える借金を抱えているにもかかわらず、である。同じ方法を繰り返しても借金が増えるだけだろう。

 産業の中心は第3次産業に移り「ものづくり大国」でなくなっている上、製品の買い手である消費者の人口が減少する時代に突入している。今後は身の丈に合った経済政策や外交政策が必要である。そろそろ、幻想を追い求めて同じことを繰り返すことをやめる時期にきているのではないだろうか。

(野党時代の自民党総裁選で沖縄を訪れた現在の安倍首相(右)ら政権主要メンバー)









沖縄の季節は一気に夏へ

目に染みるような青空、涼しげな水辺の鳥。本日4月23日の最高気温は28度まで上がるという。一昨日から扇風機を持ち出した。夜が蒸し暑く眠れないからだ。ほんの1週間前はまだ日によって寒い日が戻ってきただけに、冬からいきなり夏が来た雰囲気である。例年ならば、暑くもなく寒くもない春がしばらく続いたが、今年はほとんどなかったと思う。週間の天気予報を見ると、明日から連日雨マークが続く。梅雨入りも近いという噂も出始めた。  








巨大な自然の力の陰で

最近、散歩コースにしている那覇市の新都心公園で、デイゴが花をつけるのを見かけるようになったが、どれも枝の先にぽつりぽつり程度。木いっぱいに咲く光景をほとんど目にしたことがない。木が弱ったり害虫に寄生されたりしてトラブルをかかえたりするせいだろうか。

 一方、シロツメクサはほとんど絨毯のように地面を覆いつくし花をつけている。外来植物が持つ力に在来種はなかなか対抗できないのだろうか。白い可愛らしい花は微笑ましいが、その生命力は恐ろしいほど強力である。

 今後の日本の命運を決めかねない参院選、場合によっては衆院選とのダブル選挙を前にした重要な時期に、九州が大震災に襲われた。被害を最小現に抑えるために、早急な対応が望まれるが、これまでの安倍政権の動きを考えると、このように社会の関心が一方向に向きがちな時期、どさくさにまぎれて重要な決定をしたり後になって作動する時限爆弾のような仕掛けを埋め込んだりすることが考えられるので要注意だろう。TPP、消費税の10%引き上げ、普天間基地の辺野古移設、安保法制、原発の再稼働、憲法改正(緊急条項や9条の改正)など重要案件が俎上にあがったままである。

 今回の災害について、米軍との協力を検討しているというニュースが流れたが、本当に必要だろうか。東日本大震災の「トモダチ作戦」のような形らしいが、外国軍隊が日本国内で恒常的に活動することの意味についても慎重に検討が必要だろう、







日本人の鉄道愛の功罪 

 地元新聞報道によれば、那覇と名護を結ぶ鉄軌道の4ルート案がまとまり、年内に確定、2020年に着工を目指すという。本気で今から鉄道建設を目指しているのだろうか。採算見通しなどが記されていないが、莫大な建設費と開通後の赤字が次世代の負担にならないか不安である。

人口減少社会に向かう日本において、鉄道のように巨額の投資と維持費のかかる交通手段が向かないのは明白だろう。確かに、日本人の鉄道愛は根強いものがあり、ほかの交通手段にはない物語性や郷愁を感じるのも分かる。異常な熱意をもって開通に向かって突き進む。

しかし、それが具体的にはっきりと現れるのは開通直後と廃線直前のみであり、路線維持に必要な日々の乗降には反映されない。もし、廃線まぎわの賑わいが反映されていたら廃線になる必要はない。メディアは開通時の熱気や廃線時のわびしさを盛んに伝えても、なぜ廃線に至ったかはあまり触れない。冷静になって、もっと費用対効果のよい交通システムを検討すべきだろう。









日本人は新幹線開通に弱くなったのか

 

3月26日は土曜日にもかかわらず、大型輸送機が那覇市上空を飛んでいった。米軍は軍事的な必要に迫られ輸送しようとしているのだろうか。数日前には、同型の輸送機がまさに自宅の頭上を通過して行った。

この日は北海道新幹線の開通日。最近のテレビは北海道新幹線の話題が目につき、一部のメディアを除けば、地元をはじめ関係者が盛り上がっているという視点でもっぱら取り上げている。九州新幹線や北陸新幹線の開通のときも、まった同じ色合いの報道。新幹線は高度経済成長時代の「華やかなりし日本」への郷愁をかきたてるのだろう。だから、新幹線の開通ではお祭りムード一色で酔いしれたいのかもれしれない。

しかし、国が膨大な借金を抱え、高度経済成長を望めない高齢化社会に向かう現状から目を背けられない。かつては、巨大な総工費は誰が負担するか、開通後の採算はどうかという視点の報道もよく見かけたが、近年はほとんどない。新たな新幹線の採算を検証する記事や番組も目にしない。批判的な報道の視点はどこに行ってしまったのか。







観光振興と社会的憎悪

 

 昨年、沖縄を訪れた観光客は770万人を突破し、外国人観光客だけでも150万人に達した。観光立県を謳う沖縄にとっては喜ばしいことだが、外から入ってくる人が増えれば増えるほど、テロなど社会的憎悪が生む無差別攻撃も視野に入れる必要が出てくるのだろう。日本は中東紛争に直接介入をしていないものの、政府は軍事介入をする欧米諸国との結びつきを強める方向に近づいている。沖縄は米軍基地が集中するという特殊事情を抱え、3月22日にベルギーの空港や地下鉄で起きたテロもまったく無縁とはいえないだろう。

 監視と警戒を強め、要注意人物をマークすることによって、ある程度テロを防止はできるのだろうが、人が集まりテロのターゲットになりうる場所は無数にあり、そのすべてで監視と警戒をできない。少しでも疑いのある人物を四六時中つけまわし、不審な行動があればただちに拘束するというわけにもいかない。民主国家と法治国家であるかぎり、すべてのテロ予備軍をからめとる網は使えず、もしそのような網をかぶせようとすれば、本来テロまで至らない人々の社会的憎悪をかきたてテロに走らせることになりかねない。

 テロの根本的な対策は、いかに格差を縮め社会的憎悪を鎮めていくか、だろう。しかし、この国は「経済成長」「技術立国」「国威発揚」の名のもとに、一部の人々の懐を富ませ、一部のエリート育成に資金を注ぎ、格差は広まりつつある。中東や欧州で頻発する、宗教的な背景を持つテロとは異なるが、社会への憎悪にかりたてられた無差別殺人がこの国で起きているのも事実だろう。









総活躍社会に漂う戦前の香り 

 2016年度の国家予算に関する報道で、NHKが「一億総活躍社会に向けて」と前置きし説明していた。政府が予算のお題目として掲げているから、それをそのまま使ったのだろうが、無批判で報道原稿に入れるのはどうだろうか。聞いていてかなり違和感を覚えた。

 まず気になるのは、「一億総活躍」がまとう傲慢さである。政治は理想を高く掲げるべきだが、その結果に対しては謙虚でなければならない。すべての人を幸福にすることなどできない。政策の網の目からもれる人に対して注意を払い、そうした人を少しでも減らすことで、よりよい政治になる。にもかかわらず、「一億総活躍」を前面に出すとは、悪い結果に対しては無視するか、政策とは無関係な場所に責任をなすりつけるつもりだろうか。

 しかも、「一億総~」のネーミングがきな臭い。国民全体を一つの方向に導けば、そこに理想郷がある。強引に引っ張ろうとする意図を感じないではいられない。「一億総火の玉」など戦前の国家スローガンを思い起こさせる。















食事のおやつ化の先にあるもの 

先日、子供の食事に関する講演を聞くと、菓子パンやスナック菓子など、おやつとしか思えないもので食事を済ませる子供が多いという話が出ていた。健康番組がやたらと増え、何々という食材が体によいと番組内で告知すれば、すぐにその食材がスーパーで売り切れになることと比べれば、同じ時代の現象と思えないが、これもまた現実なのだろう。

お金と時間を惜しまず体のよい食材と調理法を追求する人々がいる一方、食事はとにかく腹を満たせればよく、時間と手間をなるべく省きたいと考える人々もいて、二極化が進んでいるようだ。高級車がよく売れ、高級ホテルが繁盛する一方、激安バーゲンに買い物客が殺到するように二極化は時代の流れかもしれない。

ただ、食事のおやつ化は節約志向に重ねられない部分がある。お金を節約するためだけならば、自炊して食材を工夫した方が安く済むのは明らかだ。決して安価とは言えない菓子パンやスナック菓子に手がのびるのは、料理方法を知らないからであり、料理にかける時間と手間は「面倒くさい」からだろう。お金になることや自分が楽しいと思うこと以外は、生活の中から削ぎ落とし省いていった結果が、食事のおやつ化とおもえる。

おやつ化した食事は将来的には体への影響が予想されるが、まず心配されるのは心の成長への影響であろう。食事は生きる上で欠かせない作業であり、スナック菓子や菓子パンだけで心が豊かになるとは考えられない。しかも、おやつ化した食事で育った子供たちが成長して親になれば、その子供にも、おやつ化した食事を出すことは十分考えられる。代々受け継がれかねないのである。






アイドルから政治家まで自分の言葉で語れない日本

那覇市の与儀公園に並ぶヒカンザクラがそろそろ満開を迎えそうだ。といっても、本土のように花見をしながら飲食をしたり騒いだりするわけではないので、ざわついた雰囲気になることはない。

世界を見渡しても、花見をしながら酒を飲む風習は日本以外に聞いたことはない。サクラを愛するがゆえともみられるが、サクラそっちのけでベロンベロンになるまで飲む姿を各地で目にすると、別の目的が含まれる気がしてならない。簡単にいえば飲む口実である。本来ならば「俺が飲みたいから飲もう」と周囲を誘うべきなのだろうが、自分の欲望はベールで覆い「花見の季節だから飲もう」と何か他の口実をつくって誘う方が、この国ではスマートであり、誘われる方も誘いにのりやすいのかもしれない。

自分の言葉で本心を語らないことは、酒だけにかぎらず社会全体に浸透し、この国に深く根付いた精神かもしれない。今年に入って、アイドルやタレントから政治家まで謝罪、釈明会見がメディアを賑わせたことを振り返ると、そう思いたくなる。それぞれ、自分の意志でカメラの前に立ったことになるが、カメラの前に立つまでにかかった時間、しゃべり方や表情、記者との受け答え(または、それがまったくない)、報道などから漏れ聞こえる情報などから、カメラの前に立つことを許可し、事前にしゃべる内容をチェックする第3者がいたことは明らかだろう。成人の年齢に十分達し、組織人ではなく個人として活動しているにもかかわらず、細かく行動の制約を受けるとすれば、この国において個人の意志とは何か分からなくなる。











自宅で豆苗を育てる

 これまでに何度も豆苗を買って食べていたが、食べ終わればすぐに捨てていた。しかし、今回は、水につけておけば再び生えてくるという説明が袋にあることに気づき、水を与え成長具合を観察することにした。最初の5日ほどは、ほとんど伸びないが、6日を過ぎたあたりから、急に目にみえて伸び出し、9日目には伸びすぎるほどとなり再び食卓にのせる決意をした。(写真は左が5日目、中央が7日目、右が9日目)

 一度切り取った豆苗はゴミでしかないと思っていたが、ちゃんと生きている。毎日足を運ぶスーパーに並ぶ肉や野菜は色や形といい、あまりにも整いすぎ、「生きもの」という感覚はなくなり単なる「商品」としか見られなくなる。しかし、商品になる以前は生きものであり、物によっては棚に並んでいても生きている。

たかだか豆苗だが、自宅で育てることによって、生きていることを実感し愛着がわき、自分がそうした生命を口に入れる業の深い生き物であることを改めて知る。人間は生きている命を食べることによってしか、自分の命を長らえることができない。







「建国の日」に国の起源を考える

写真は2月9日、首里城から眺めた夕日である。雨や風の日が続き、少々うんざりぎみだっただけに穏やかな気分になれた。以来、ここ3日は晴天が続き、本日は2月11日「建国記念の日」。靜かすぎるくらい靜かである。

 どこの国にとっても大抵、「建国の日」は国の出発点や建国の精神と深くかかわることから、盛大に祝うのが当然であろう。しかし、この国で祝う声はほとんど聞こえてこない。やはり、「建国記念の日」の成り立ちと関係しているのだろう。

もともろ2月11日は戦前の紀元節。初代天皇の神武天皇が即位した日とされているが、神話の世界である。米軍占領下でいったん廃止されたものの、復活を求める声に押されて「建国記念の日」として蘇った。当時、どのような雰囲気だったか分からないものの、今の時代どの程度支持されているのか、はなはだ怪しい気がする。

日本は、米国のように戦争をくぐりぬけて独立を果たした国ではないから、この日に国が誕生したという記念日を決めにいくいかもしれない。「建国の日」を何日にしたらかといって世の中がすぐに変わるものではない。しかし、国の出発点をどこに置くかは、未来への指針を決める時には欠かせない。この国は雰囲気にのまれやすく、今まさに漂流する難破船のような様相を呈している。改めて、国の出発点と成り立ちを見定め、不確定の未来に向かってどう進むべきか議論しなければならない時期ではないだろうか。










道徳授業の復活を考える

 

思わず本のタイトルにひかれて買った。大倉幸宏『「昔はよかった」と言うけれど ―戦前のマナー・モラルから考える―』(新評論 2013年)である。よく、近年マナー・モラルの低下が叫ばれ、何となく「そうだろうな」と思い込んできた。しかし、具体的に資料を調べたり研究したりしたわけではない。昔はマナー・モラルについて厳しく躾けられたというイメージが浸透している。

 著者は、戦前の新聞や著作物からマナーやモラルの関する部分を調べ、当時の実態を描こうとする。列車への割り込み乗車、車内でのゴミ捨てや宴会騒ぎ、横行する無賃乗車、ゴミ捨て場と化した道路・河川や公園、輸送荷物からの抜き取り、犬猫の死肉販売…。現代日本では考えられず、どこか途上国のような行いの数々である。

こうした実例を挙げながら、現代の方の方が、明らかにマナー・モラルが向上していると断定するとともに、著者は最後に、道徳教育のあり方に疑問を投げかける。戦前には、道徳が教科として教えられていたにもかかわらず、かなりひどい状態。今、安倍内閣のもとで再び道徳を教科にしてもマナー・モラルの向上に効果があるのか。いつ、なぜ日本人のマナー・モラルが崩れたかは議論の余地があると思うが、道徳の教科化についてはまったく同感である。

 













琉球王国時代の気風を読む

 実家に戻って昔のガラクタが入った箱を漁っていたら、岩波文庫の『朝鮮・琉球航海記』(ベイジル・ホール著 春名徹訳)が出てきた。この本を買ったことはもちろん、存在することも完全に忘れていた。

 本書は、ペリー来航の37年前にあたる1816年、イギリス海軍艦長のベイジル・ホールが琉球王国を訪れた際に見聞きしたことをまとめている。まず目立つのは、王国側が外国人との接触を厳しく制限しようとしたことである。最初は、イギリス軍艦を訪れる王国の高官と話すだけで、上陸さえも認めようとしなかった。しかし、イギリス側もゆくゆくは東アジアに拠点を置き、自国の利益になるネットワークやシステムを築くことを目指しているため、手ぶらで引き上げるわけにはいかない。

イギリス軍人たちと琉球王国の役人たちの駆け引きが興味深い。武力を使わず粘り強く交渉しながら、自分たちが目指す方向へ相手を導こうとする。文化や言葉の壁があり相手の予備知識も乏しい中、議論や飲食の場を重ねながら互いの言語や文化を学ぼうとする姿勢には、異文化交流の本来の姿を感じる。最終的には、イギリス側は海岸付近を散歩して村人と交流し、王子との面会を果たす一方、王国側は内陸部への侵入を阻み、国王との面会を諦めさせる。相手の立場を尊重しながらも一定の譲歩を引き出す。ペリー来航の時は強く迫って王国に対して条約に調印させたのに比べれば、まだ牧歌的な時代かもしれない。暴力的な帝国主義によって琉球が侵される前の異文化接触といえるだろう。

王国では身分制に基づく厳しい上下関係や外交方針の決まりごとはあるものの、許される範囲でせいいっぱい外国人に対して好奇心や友情を示したことは庶民はもちろん役人からも感じられる。ただし、女性との接触は厳しく制限しようとしたらしく、遠くから目にすることも避けようとしたようだ。










沖縄のクリスマス

東京のクリスマスを経験した者としては、沖縄のクリスマスはかなり控えめのような気がする。イルミネーションなどクリスマスの飾りつけが目立つのは、一部の大型商業施設くらい。店内もさほどクリスマス色は濃くなく、クリスマスソングもあまり耳に残らない。暖かい気候でクリスマスムードを感じにくいせいもあろうが、沖縄では比較的、祖先崇拝が残り地域の結びつきも強いせいではないかと個人的には思っている。

もともとクリスマスはキリスト教の文化であり、家族が一堂に集まってしめやかに過ごすもの。日本の正月に近い。それが、日本では友人どうしで集まって騒いだり恋人たちがロマンチックに過ごしたりする日になっている。行事の外側だけ受け入れて中身の精神を抜き取り、自分たちなりにアレンジを加えて活用する。宗教にこだわらない精神性だから、可能なのだろう。一方、沖縄では宗教や地域の結びつきなど独特の精神性が強いから、他宗教の精神が根底にあるクリスマスが浸透しにくいと考えられないだろうか。  

 日本は無宗教者が多いおかげで、宗教的な対立がなくテロも少ないと称賛する一部識者がいる。しかし、人生の原則である宗教がないことによって、場や時代の雰囲気に流されやすく、「今が心地よければ、楽しければいいじゃないか」に陥りやすい。戦前、日本が戦争の道を歩んだのも、そうした精神性の反映と読め、今という時代も同じ流れを感じずにはいられない。













神のインフレ時代 

 

もうすぐ正月である。子供のころは、正月に独特の空気感があった。人や車の往来が止まり商店も閉まって、街全体を静けさがすっぽりと覆う。日が暮れると、闇夜はだんだん粘性を増して魑魅魍魎たちが徘徊する予感がして、世の中全体が重くなって沈んでいく。ところが日付が変わった途端、ふあっと軽くなりすべてが解き放たれる。朝、目が覚めると、体はまだけだるく外に出る気分にはないが、空気はすがすがしい。

こうした神聖な空気感は年をとるに従って薄らぎ、ほとんど消え去った。社会は休むことなく動き続け、夜でもあたりを昼間のように煌々と照らし出す。いつものように店が開き、現代人の多様な好みに合わせた商品が店頭に満ち溢れ途切れることはない。人や車の流れは果てしなく続き、街は静まり返ることはない。

 一方、近年、年中行事の神聖さが薄まるのと反比例するかのように、世の中に「神」という言葉の氾濫が増幅しているような気がしてならない。「恋愛の神様」「株の神様」「神対応」「神セブン」…。神と直接言わなくても、「パワースポット」「降臨」など神を予感させる言葉もよく目にする。本気で神と崇めているというよりは、「特別」くらいの意味なのだろうが、何かにすがりたい、自分なりの神を求めたいという情念の香りが立ち昇る。















久高島で受け継がれる心と命

 

1125日、桜坂劇場で「久高オデッセイ 第三部風章」を見た。久高島の美しい自然と次代を担う子供たちの姿が印象的である。久高島の心と命が受け継がれていることを意味するのだろう。第一部、第二部を見ていないので、これらを見ると、また受け止め方が違ってくるに違いない。

久高島には沖縄に来てまもない頃、一度だけ行ったことがある。その時は久高島についてあまり知識がなく、琉球王国の始まりの地とか神の島とか呼ばれることを知らなかった。ただ、少し変わっていると思うところはあった。人家があり人の手が加えられているのは港に近い島の一角だけで、あとは自然のままの森や海岸が多いことが印象に残っている。ほかの地域の海岸では、アダンなどの木々は浜に近いところに少し生えているぐらいだが、久高島ではびっしり島の中心まで繁っていた。






那覇の熱帯夜と屋台村

昨日、1117日の気温は30度近くまで上がり、日が暮れても25度を下回らない熱帯夜。裸で寝ていても寝汗をびっしょりかいた。もう必要ないだろうと扇風機を片づけたことを少し後悔した。それにしても、11月ももう半ば過ぎなのに、何という気候だろうか。

昨夜は友人らとともに初めて、竜宮通りの屋台村に行ってみた。敷地内に小さな店舗がいくつも並ぶが、店内はカウンターだけで、店の外にテーブルをいくつか置いている店が多い。ちょうど新橋あたりのガード下のような雰囲気をつくる。今のような寒くなる前の気候ならば、外のテーブルは解放感があって心地よい。




















沖縄で考える人づきあい 

浜辺の村を歩くと、家と家の間を仕切る塀は低く、カーテンやブライドなどで室内を隠していないことに気づく。家族・親類が集まった笑顔や、仏壇とその横にともる明かりが目に飛び込んでくる。

 小学生のころ、農家の一軒家だった祖母の家を訪れたことを思い出した。戸や窓を開け放つのは、自然の風を取り込み室内を涼しくするためだろうが、家の周りを通るのは見知った人ばかりであり、室内を見られても困るとも恥ずかしいとも思わない感覚もあるだろう。

 都市での自分の暮らしを振り返らずにはいられなかった。室内を隠すことは当たり前になっていた。都市では見知らぬ者どうしが集まって暮らす。家の周りをどんな人がどんな目的で通るか分からない。もし室内を見られた場合、どう思われ、見たことをどう利用されるかも分からない。不安に囲まれて生活しているから、なるべく自宅を覆い隠そうとするのは宿命だろう。

加えて、親類で集まらなくなったことも思い出した。小学生まではお盆の頃、祖母の家に親戚一同で集まっていたが、中学生以降は祖母の家を訪れなくなった。高校を卒業してからは一人暮らし、ほとんど都市生活者である。

親類一同が集まり血縁の広がりを感じることもなければ、仏壇やお札といった一族の歴史が染み込んだ家もない。日ごろ付き合うのは同年代の仲間ばかりである。地縁・血縁から離れて何をしたかったのか。とにかく自由を求めていた。

人類の長い歴史からみれば、地縁・血縁の中で暮らすことが当然だった時期が圧倒的に長い。好きか嫌いかの選択肢はなく、大半の人々は地縁・血縁の中で生きるしかなかった。現代において、自由に移動し通信手段に恵まれているが、意外に付き合いは狭いのかもしれない。






聖火と復帰前の沖縄 

 2020年の東京オリンピックは、経済活性化のための起爆剤という面から語られることが多いが、沖縄から見た1964年の第1回東京オリンピックは、まったく違ったものだったのだろう。名護市嘉陽区にある聖火宿泊の記念碑を眺めていると、そう思えてくる。

 記念碑は、5つの石碑からなり、「聖火宿泊碑」の5文字が1つの碑に1文字ずつ割り当てるというユニークなスタイル。聖火を宿泊させるだけにもかかわらず、専用の聖火台をコンクリートで建設しており、これらだけでも当時の熱気が感じられる。さらに、聖火の宿泊を記念したスポーツ大会も今日まで続いており、久志駅伝大会は今年で51回、久志20kmロードレース大会は49回を数える。

 県立公文書館に残る写真を見ると、沿道はほとんど日の丸で埋め尽くされ、聖火リレーに列をつくって伴走する人々の胸にもすべて日の丸。米軍統治下で日の丸の掲揚が厳しく制限された時代であり、異民族支配から逃れたい気持ちが痛いほど伝わる。「沖縄があたかも日本へ復帰したかのような喜びにわきかえった」と報道された。

 嘉陽地区は山を一つ越えて南へ行けば、普天間基地の移転をめぐり新基地建設が計画される大浦湾。新聞報道によれば、石井国交相が11月9日、新基地建設に伴う埋め立て承認を取り消した翁長知事に対して、取り消しを撤回するように指示を出したという。新基地推進の国も、反対の県も譲る気配はなく、埋め立て承認をめぐる争いは法廷に持ち込まれる見通し。本土復帰から40年以上も経ちながら、力による基地の押し付けが、嘉陽に近い土地で繰り広げられるとは何ともやるせない。






沖縄県産本フェア16日開始

東京など大都市圏をのぞけば、沖縄県は最も出版活動が盛んな地域ではないだろうか。県内の出版社でつくる「沖縄県産本ネットワーク」に正式に加入する社だけでも20社を超える。食料品によく使われる「県産」を、本にもあてはめるのは、食料品と同じくらい身近に感じてほしいという願いが込められているのではないかと勝手に思っている。

その県産本ネットワークが毎年開く本のお祭り「沖縄県産本フェア」も今年で17回目。9月16日から101日まで、デパートリウボウ7階(那覇市久茂地1-1-1)のブックセンター・リブロで開催される。店内の中央に、出版社ごとにドーンと県産本が並べられるほか、掘り出し物が見つけられるバーゲン本のコーナーもある。

県産本コーナーが一段とパワーアップすることはもちろん、出版社ごとの思いやメッセージも張り出され、ふだんとは違った展示を楽しめる。県産本出版目録やサービス提供品もあるので注目。弊社(沖縄探見社)の本も出品されるので、立ち寄った際にはよろしく。











「個性」探しの子どもた

記憶によれば、大学の卒業を控え、就職活動をしていた1980年代中頃から、盛んに「個性」がもてはやされるようになった。メディアでは、企業は個性的な人材の採用に重点を置くという話をよく聞いた。ちょうど、坂本竜馬ブームだったこともあり、履歴書の「尊敬する人」欄に「坂本竜馬」と書く者が多かった。

自分を含めて海外経験を「個性」として押し出そうとうる者も目立った。背景には、大量に安くつくるだけではモノは売れないとか、懸命に長時間働くだけでは成果はあがらないとか、高度経済成長期を終えて新しい価値観を求める動きがあったようだ。

 以上のように、「個性」を自分のセールスポイントぐらいに軽くとらえていた時期とは異なり、土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店 2004年)は、もっと根深い問題となっていることを浮かび上がらせる。同書によれば、現在、子どもたちは小さいころから個性的であることを迫られる。

しかも、本来、他人とぶつかり合い、深い関わり合いを重ねることで、自分と他人の違い、つまり個性を練り上げるはずだが、今どきの子どもたちは、自分が傷つくことを恐れ他人との深い接触を避けるため、自分の内側をじっと凝視することで「個性」を発見しようとする。しかし、辿り着く先は非常に感覚的で気分的なものに流れがちである。ダイヤモンドの原石のように自分の内側に眠るはずもない「個性」を探して不安と焦りに絶えず襲われることになる。












日本人は幸福になったか 

外国人からみた典型的な日本人といえば、礼儀正しいものの、打ちとける親しみやすさはないとか、喜怒哀楽をあまり表に出さず、無表情に近いとか、大抵このあたりだろう。日本人からみても、大きく外れてはいない見方と思っていた。ところが、渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社 2005年)で浮かび上がる日本人像とはまったく異なっている。

同書は、幕末から明治時代の初めのころ、訪日外国人が残した記録のうち、当時の庶民に触れた部分を引用し、近代化の波をかぶる以前の姿を描いている。それによれば、多くの外国人たちは、日本の庶民がいつも幸せそうな笑みをたたえ、気さくに振る舞う姿に感動する。庶民の外国人に対する好奇心も旺盛であり、時には動物園の動物のごとく、身に着けているものから一挙手一投足まで注目する。また、近代化以前の庶民は支配階級に搾取されて貧しく不幸だったというイメージがあるが、同書では、質素ではあるが、きちんと手入れの行き届いた家や田畑で暮らし、こざっぱりした清潔な服装をしているという。

異なる文化を持つ外国を理想化する傾向はどこの民族にもついてまわることを差し引いても、今の日本人がこれまで抱いてきた近代化以前の日本はもちろん、日本人らしさとは何か、近代化が日本人をどう変えたか、問い直す必要を感じる一冊である。

 









沖縄とストレス


万全といえるほどではないにしても、沖縄に移り住む前と今を比べると、健康的になったとはいえると思う。ストレスがだいぶ減ったおかげだろう。

「こうあらねばならない」という雰囲気があまりないせいではないだろうか。「こうあらねばならない」とは、はっきりと規則や条文として決まっていないが、自分も同じことをしなければならないと感じるような雰囲気である。

たとえば、朝夕の通勤ラッシュアワー時間帯、駅の構内で周りの人々が走っていたり速足で歩いていたりすると、そうする必要がないにもかかわらず、自分も走ったり速足になったりしなければならない気分になる。また、体を背広でがっしり固めて「私は仕事をしています!」という雰囲気をまき散らす人ばかり通りを闊歩していると、収入の安定しない自営業の私などは自分がみすぼらしい人間に思えてしまう。

こうした雰囲気が沖縄では薄いのは、多くの人が同じ時間帯に同じ方向へ向かう本土の通勤ラッシュのようなものがなく、自分の仕事ふりをアピールしながら街中を闊歩するエリートサラリーマンもほとんどいないか、いても少数であるせいではないかと思う。そして何より、周囲の視線が気にならないことは大きいかもしれない。都会では、社会一般とはずれた時間帯に、はずれた格好で、はずれた行動をすると、周囲の視線が気になる。沖縄は、それぞれ好き勝手にやっている人が多いせいだろう、周囲の視線を感じることは少ない。

「こうあらねばならない」の雰囲気について、ブラジルで感じたことを別の機会に次のように書いた。 

サンパウロに着いてまず驚いたことは、みんな服装がばらばらなことだ。通りを行き交う人々の服装には、似たような着こなしや色調は見当たらない。厚着の人も薄着の人もごちゃまぜだ。革ジャンパーの人とTシャツ一枚の人が並んで歩く。冷暖房の効いた部屋から外の人を見ると、暑いのか寒いのか想像もつかない。

 そんな目で見ると、日本の雑踏は見事なくらいそろっている。一人ひとりの服装は違っても、およそ一定の範囲に収まっている。色調やデザインはもちろん、薄着や厚着の度合いも似通っている。冷暖房の効いた部屋からでも、外の人の服装を見ればおよその気温も推し測れる。

 日本で自分が外に出かける前にどうやって服装を決めていたか思い出してみる。天気予報でその日の天候や気温がどうなるのかほぼ毎日きっちり確認する。窓の外から通りを歩く人々の服装を参考にする。その日の通勤通学をする人々の姿を伝えるテレビの映像も気にとめたかもしれない。いずれにせよ、暑い日「らしく」寒い日「らしく」今時「らしく」身なりを整える。他人を見る目であり、自分を見る目でもある。

 服装だけではない。学生らしく、勤め人らしく、若者らしく、老人らしく、二十代らしく、四十代らしく…。日本には多くの「らしく」がある。権利でもなく義務でもない。正義でもなく道徳でもない。しかし、よく使っている。ある時は他人を評価する物差しであり、ある時は自分が守るべき決まりごと。体に縫いこまれた服のように意識しない。人は秩序と呼ぶかもしれない。

一つひとつは塵のように微かなものだろう。だが、塵もつもれば山となる。ふんわりした雪もつもると、家を押し潰す。あまりにもたくさんの「らしく」は人を縛り付ける。重苦しさを感じさせる。

 日本を出ると、そのような「らしく」を一枚ずつ剥いでいける。「らしく」ない人がごろごろいるからだ。心と体がどんどん軽くなるようで心地よい。何でもできる気分になる。病み付きになる。しかし、「らしく」をどんどん剥いでいったら最後に何が残るのだろうか。「自分らしく」に行き着くのだろうか。








首相談話と琉球王国

8月14日に発表された戦後70年の首相談話に対する評価はさまざまだろうが、明治時代初期に日本へ併合され沖縄戦では甚大な被害を受けた沖縄の視点からすれば、日本がアジアに対してどのような被害を、なぜ与えたのか曖昧であり、何を反省し謝罪しているのか、みえなかっただろう。妥協の産物を積み重ねる典型的な「霞が関文学」のように思えて仕方なかった。

長々とした歴史講話の裏側には、日本の戦争を目的という面から正当化する歴史観を感じた。欧米各国もアジアを侵略し植民地化したのに、なぜ日本だけが非難されるのか。単に同盟国の選択を誤ったからであり、アジアを欧米の植民地から解放したではないか。こうした歴史観は一部正しさを含んでいて、一般市民や一部の研究者が持つことはやむをえないのだろう。

しかし、日本を代表する首相が国の内外に向けて発するメッセージとしてはあまりにも自己中心的である。「ほかの人も同じことをしているのに、なんで僕ばかり責められるの?」と駄々をこねる子供のようである。しかも、「謝罪は終わりにしたい」「未来志向でいきたい」と言えるのは被害者側であって、加害者ではない。とても、相手の気持ちを慮れるはずの大人の発言とは思えない。

こうした首相の歴史認識を考えると、今後、名護市辺野古の新基地建設をめぐる沖縄県との協議で、政府側がどれだけ沖縄の歴史を踏まえて交渉に臨むのか、はなはだ疑問である。琉球王国が日本に併合されたのは1879年。日清戦争の結果、台湾が日本に割譲される、わずか15年前であり、琉球王国の意志に反してである。沖縄戦では、本土決戦の準備に向けた時間稼ぎのために、沖縄の被害を大きくする撤退作戦が続けられた。サンフランシスコ講和条約では、日本本土の独立と引き換えに、沖縄は正式に米軍統治下に入った。こうした沖縄の歴史を抜きにして、「いつまで過去にこだわっているんだ。未来志向でいこう」などと新基地建設の協議を進めようとすれば、交渉は行き詰まるのは目に見えていよう。







壕の中の沖縄戦 

沖縄戦跡を紹介する本はいくつもあるが、沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集委員会編『沖縄の戦跡ブック ガマ』(沖縄時事出版 2009年)はガマに焦点を当てているという点でユニークである。同書では、沖縄戦の概略や地域ごとの戦跡を説明するとともに、県内の主なガマを個別に紹介。沖縄戦当時、何が起きたかを解説し、実際に読者が訪れられるように写真や詳細な地図も添えている。

ガマとは沖縄の言葉で洞窟や壕を意味するが、沖縄戦を特徴づける出来事が多く起きた場所でもある。住民が集団自決を行ったり、旧日本軍兵士と住民が食料や避難場所の確保をめぐり対立したりした。なぜ、ガマが沖縄戦で大きな意味を持つか、弊社の『沖縄戦の「狂気」をたどる』が次のように説明する。

「沖縄戦でアメリカ軍は連日、雨あられのように爆弾、砲弾や銃弾を日本兵や沖縄住民の上に降り注ぎ、「鉄の暴風雨」と呼ばれた。特に戦闘の激しかった沖縄本島南部では1カ月に680万発の砲弾が撃ち込まれ、住宅、工場、倉庫など建物はほとんど原形をとどめず、野山も地形が変わるほど破壊つくされた。そのような苛酷な攻撃から命を守るには、壕に身を潜めるしかなかった。

 壕には、人の手によって山腹などに掘られた防空壕(人工壕)と自然に形づくられた自然壕がある。沖縄では本島中南部を中心に石灰岩質の地層が広がり、地下水などによって長年にわたって侵食されできた自然壕(沖縄方言では「ガマ」と呼ばれる)が多くある。中には数百人が入れるような大きな自然壕もあり、日本軍の作戦司令室や野戦病院、臨時の役所が設けられることもあった。

 しかし、数万の日本兵と十数万の避難民をすべて収容することなどできない。入り口が外から見えにくく、内部が広く快適であり、堅固で強い攻撃にも耐えられる、など条件のよい壕は限られている。後から来た日本兵によって、先に入っていた避難民が追い出されることもしばしばあった。たとえ日本兵と避難民が入れる十分な広さがあったとしても、避難民が足手まといになったり、アメリカ軍側に避難民を通じて情報が漏れることを恐れたりしたらしく、哀願する避難民に対して壕を出て行くように命令した。

 しかも、避難民から食料を力づくで奪うこともあった。沖縄戦が始まる以前からすでに、沖縄近海では日本の輸送船が、頻繁に出没するアメリカ軍の潜水艦や戦闘機などによって撃沈され、物資の補給はままならなかった。加えて、沖縄本島内に日本軍が備蓄していた食料についても、強力な火力を誇る米軍の攻撃を前に退却するだけで精いっぱいとなり、各部隊への移送も困難となった。

 食糧事情は一般住民も同じかそれ以上に悪かった。家族で自宅から持ち出した食料を食いつなぐほかは、米軍攻撃がやむ夜間に付近の畑や空き家をあさって探すしかなかった。それも沖縄戦が長引くにつれて見る見る底をついていった。一方、日本軍が総崩れ状態で指揮命令系統もずたずたとなると、兵士は「敗残兵」となって自分の判断で生き残る道を探り、なけなし住民の食料も狙った」





 

国の財宝を取り返した琉球の花街 

戦前まで花街だった那覇市の辻は、独特の習慣と歴史を育み心惹かれるところは多い。首里城を中心とした表の政治舞台とは異なり、本音や欲望が渦巻き、等身大の人間の姿を感じられる。

政治の表舞台と裏舞台の対比という面では、浅香怜子著『琉球の花街 辻と侏●<ジュリ>の物語(●=亻+离)』(榕樹書林 2014年)が、冊封使をめぐる興味深い逸話を紹介している。冊封使は、新しい琉球国王の即位にあたって中国から皇帝の代理として派遣される使節団である。中国皇帝から任命されるという形をとることによって、国王としての権威づけをするわけだが、その代償は大きい。

冊封使には中国から数百人の随員が付き添い半年間滞在する。接待費や食費だけでも相当な金額に達する。さらに同書によれば、随員たちの報酬は、中国から持ってきた商品を琉球側が買い取ることによってねん出される。当時、中国から琉球への航海は命がけであり、それに釣り合う値段での買い取りを求められ、王府があらかじめ用意した銀だけでは足りず、銀の箸など国中の銀をかき集めて支払いに充てた。ところが、花街の女性であるジュリたちが、随員たちを長く滞在するうちに手玉にとり、かなりの量の金品を巻き上げた。中国側から「やりすぎ」と抗議がでるほどだったという。結果的に、ジュリが国の財宝の流出を防いだことになる。

辻の町は1672年に王府によって開設された。薩摩藩の役人や冊封使ら外来者への接待と饗応が目的だった。当初から、国富の流出を防ぐ役割を狙っていたかどうかは分からないが、少なくとも冊封使に関しては王府も利用していたようである。ジュリを中国人宿舎に出入りさせ、冊封使からの抗議ものらりくらりかわしていたそうだ。琉球のしたたかさを感じさせる逸話である。(写真は、旧二十日正月に行われる辻の伝統行事「ジュリ馬」)







鉄道と沖縄の時間意識 





橋本毅彦+栗山茂久編著『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』(三元社 2001年)は、何とも刺激的なタイトルである。しかし、ちょっと考えれば、遅刻がどこかの時点で誕生したことは当たり前である。明治時代になる前は、庶民が時計を持つことなど考えられない。太陽の高さから朝、昼、夕方を大雑把に判断するしかなかった。このころ、日本人が分刻みの几帳面さであるはずもない。あまりにも日本人は時間に正確と信じ込み、この習慣がどこかでつくられたか考える余裕もなくなっていたのである。


時間意識という目に見えないものだけに、いつつくられたか明確に線引きすることは難しいが、本書で焦点を当てているのは、鉄道運行や工場勤務である。特に、鉄道運行は時間意識がなければ重大事故を起こしかねず、時間に正確さが最も求められる組織だろう。鉄道好きの日本人が時間にうるさくなるのも自然な流れかもしれない。沖縄は他県と比べると、時間意識が緩いといわれるが、鉄道がない時期が長く続いていることと照らし合わせると、時間意識と鉄道は何らしかの関係があるというのも一理あるかもしれない。沖縄では戦前、鉄道が走っていたのは1914年から30年間だけであり、戦後は、鉄道の再建はない(2003年にモノレールが開通したが那覇市内のみ)。


また、日露戦争が時計の普及に大きく影響したという本文中の指摘は興味深い。大量の人と物が投じられる近代戦では、時間の正確さは勝敗を左右しかねず、まさに人命や国の興亡にもかかわっただろう。











宮本常一が沖縄を訪れた理由 





『私の日本地図8 沖縄』(未來社 2012年)は、民俗学者として知られる宮本常一が1969年9月27日から6日間にわたって沖縄を駆け巡った記録である。6日間だから民俗学的な調査などできない。本人も「私のようなものがわずかなじかんをさいていって見ても、それは自己満足を得るだけであって何の役にもたたない」と書いている。


では旅の目的は何か。本書の最後の方に「沖縄の今後はどうすればよいかを見、考えるための旅であった」「沖縄人の本土復帰の悲願に本土人がどのようにこたえるかについて考えたのであるが、それがいかにむずかしいものであるかを痛感する」と述べている。


那覇に着いてまず触れるのは、基地に囲まれた「戦時体制」である。続いて、太平洋戦争中に激しい日米の攻防戦が繰り広げられた歴史を振り返り、戦後、本土の人々が沖縄のことをどれだけ考えてきたか反省する。この後も、沖縄戦による破壊、その後の沖縄を覆った米軍統治下によって変わったものと変わらないものに目を向ける。


文化の本質をつく興味深い指摘もある。「アメリカに占領されることによって、アメリカ化されるのではなくて、逆に本土化していったといってよい」。本土から引き離され、往来に大きな制約を加えられることによって、逆に本土に近づき一体化することを望むようになったという論理である。旅行者が沖縄で撮る写真といえば、古き時代を思い起こすような「沖縄らしい」風景が中心になるが、本書に掲載されている写真は現在の沖縄とあまり大きな違いを感じさせないものが多い。


いずれにせよ、いかに足早に沖縄を回ろうと6日間という日程では限界がある。それでも沖縄を旅しようとしたのは、あまりにも本土で沖縄のことが知られていないという苛立ちがあったのだろう。それは民俗学者という立場ではなく、戦後の日本を形づくってきた一人の大人であり、離島振興にかかわってきた氏の立場からくる責任感から生まれたのかもしれない。








実現寸前だった宮古・八重山分割案





沖縄の歴史について書かれた本はいろいろあるが、初心者が気軽に読めるものといえば、イチ押しは新垣俊昭『ジュニア版 琉球・沖縄史』(東洋企画印刷 2008年)である。「ジュニア版」とあるように、中学生でも分かる文体でありながら、沖縄の歴史について詳しく書かれ、全体で350ページになる。詳しい一般の沖縄史となると、厳密に記述するあまり何が原因なのか、どのような結末になったのか、一般の読者には流れが分かりにくくなりがちだが、本書ではぱっと読んだだけで歴史の流れをつかみやすい。


県外在住者では知る機会の少ない沖縄の史実が随所にちりばめられているが、中でも印象的なのが、明治維新まもない時期に中国との間で議論された八重山・宮古の分割案だ。中国大陸で有利に商業活動をできる権利を日本が得る代わりに、八重山・宮古を中国に分け与えるという案である。最終的には調印しなかったものの、1880(明治13)年には正式な交渉が行われ調印寸前にまで至った。


その少し前まで、沖縄の人々が日本人であることを認めさせるために台湾出兵まで踏み切った日本政府である。台湾に漂着した宮古島の住民らが殺された事件を機会に、1874(明治7)年、「日本人殺害」の報復として日本の兵士を台湾に派遣した。1879(明治12)年には、軍隊と警官を沖縄に送り込み琉球王国を解体、正式に日本の領土に組み込んだ。


武力を使って日本の領土の一部であることを主張しながらも、別の利益が得られるようならば、あっさり中国に引き渡すことも検討する。近代国家としての基礎が固まらない時期であり、ドタバタ外交が続いていたせいもあるかもしれないが、住民の意志は無視して政府の御都合で沖縄の運命を決める姿勢は今も変わってないだろう。本土が独立する一方、沖縄が米軍統治に入ったサンフランシスコ平和条約(1952年発効)にはじまり、本土復帰後の基地問題をみても、沖縄は本気で守るべきものというより「交渉材料」に使われることが多いような気がしてならない。











沖縄と吉本隆明

日本的なものとは何か。重要な問いかけであるが、地域や時代によって日本的なものは変化する。答えるのは難しい。『講演集<1>日本的なものとはなにか』(筑摩書房 2014年)の中の吉本隆明は、さまざまな角度から日本的なものの中で最も古いもの、最も基層的なものを探そうとする。

母親から子供へ伝えられるウィルスや遺伝子の全国的な分布をみると、縄文人や縄文人以前的日本人は北方蒙古系として日本列島に分布していたが、数千年前に、南中国あたりを起源とする南方蒙古系の人たちが入ってきて日本列島に広まり天皇制の基盤を築いたと推測される。このため、中央から離れた北海道アイヌや八重山諸島が混血的な要素が少なく基層性を保ち今日まで続いている。この傾向は、言語的な分布をみても、本土中央部と周辺部ではっきりとした断層があるという。詩歌や儀式、神話についても成り立つ過程を検討すると同じような断層がみつかると指摘する。

日本的なものを多くの分野から掘り下げていく吉本隆明の壮大な試みをすぐに受け入れことは私のような凡人には簡単ではない。しかし、画家の岡本太郎がありのまま自然をご神体とする御嶽に触れて、原初的な日本だとつぶやいたように、これまでに多くの知識人が沖縄に日本の古い部分が残ると主張してきたことと一致するのは何とも興味深い。


 













沖縄と中世の鬼を考える

馬場あき子『鬼の研究』(筑摩書房 1988年)で取り上げる鬼たちは、昔話「桃太郎」に登場する鬼とは異なり、もっと人間に近く、場合によっては人間が変身した存在でもある。中でも興味深いのは、平安時代、藤原氏が全盛のころ、都の中心付近で鬼が盛んに目撃されたとする記録である。まるで、藤原氏の繁栄のもとで苦渋をなめさせられた人々の怨念が鬼という姿かたちに凝縮され徘徊しているかのようだ。

こうした鬼の姿に近いと思われるのが、沖縄の昔話に登場する鬼である。「鬼餅」という食べ物の起源にまつわる昔話であるが、ある女性は、離れて暮らす兄が人を食う鬼になったという噂を聞く。確かめるために、兄に会いに行くと、噂のとおり鬼なっていた。この女性は自分の命を守り、犠牲者を増やさないために鬼となった兄を殺害するのである。

単なる悪者や怪物としての鬼では語れない物語である。「鬼餅」の中では、なぜ兄が鬼になってしまったか、実の兄を殺すと決心する際に女性がどのような心境だったか細部は描かれていないが、人間の深い情念が底流に流れていたことは確かだろう。沖縄には本土の古い言葉や考え方が残っているといわれるが、『鬼の研究』で語られる古い時代の鬼とは似たものを感じる。

このような鬼の物語を踏まえて、当社の『沖縄の伝統行事・芸能』では、現代の鬼について次のような考察をしている。

「「心を鬼にして」「鬼コーチ」「鬼畜の振る舞い」「練習の鬼」など人間に対して「鬼」を使った表現は多い。「鬼の目にも涙」といわれるように、「鬼」の物語には後悔や迷い、罪悪感など人間的な感情も残っている。鬼は最も恐ろしい存在であると同時に、われわれの心の一部なのかもしれない。

鬼の物語を紡いできた人たちは、誰しも心の奥底に鬼が棲むことを知っていたのだろう。貪欲に求めさ迷う心は現実の世界では決して満たされない。怒り狂って本物の魔物になる前に、時折は物語に登場させ、想像と現実の境界線あたりを徘徊させる。その存在を認め無念さを悼★いた★むことによって、獰猛な心を鎮★しず★めていたのかもしれない。

近年、ほとんど「鬼」という言葉に触れなくなった。せいぜい「鬼嫁」を冗談めかして使うくらいだろう。鬼は姿を消したのだろうか。どんな形相になろうと気にせず、一つの欲望や目的に向かってがむしゃらに突っ走る「鬼」の姿は今どき流行らないのかもしれない。「もっと肩の力をぬいて」とか、「楽しみながらやった方がよい結果が出る」とか、たしなめられるだろう。「鬼」に含まれる人間くささが、浪花節のようであり古めかしいのかもしれない。それとも、迷いや同情心、罪悪感をまったく持たない、鬼よりもっと恐ろしい魔物が世間に出没するようになったせいだろうか」







多様な風の名前 沖縄の季語


 暦は3月から4月へ、最高気温は25度前後にまでに達する日々が続き、沖縄も季節が変わったかなと思うところである。

ところで、季節感は亜熱帯の沖縄と温帯の本土では異なり、季節を表す言葉である季語も沖縄独特のものが使われる。小熊一人『沖縄俳句歳時記』(琉球新報社 1979年)や比嘉朝進『沖縄の歳時記』(佐久田出版社 1985年)は、そんな季語を紹介している。

今の季節ならば、生ぬるい温かさで花曇りに似た空模様を「うりずん」と呼び、さらに夏の入り口に立つようになると「若夏」になる。

沖縄の季語で興味深いのは風の名前である。数十もの風の名前が沖縄には存在すると聞いたことがある。海に囲まれた沖縄の人々、特に漁師にとっては風の変化は季節や天候を読むための重要な手がかりになっていたようだ。

「うりずん」の季節に吹く南風を「うりずん南風(ばえ)」と呼ぶ。同じ南風でも5月から7月の快晴時は「白南風」、曇雨天時は「黒南風」と色で分けている。「夏至南風(カーチーベイ)」は梅雨明けに巻き起こる南南西の風を意味する。南方から豊饒をもたらすと信じられ「豊年風」の別名がある。琉球王国時代には、この風に乗って中国や東南アジアの交易船がやっていきたという。













■歴史無視ならば薄っぺらな基地議論■


(朝日新聞1957年8月8日付)     (毎日新聞夕刊1957年8月9日付))

2月第4週、名護市辺野古の新基地建設に反対する市民が米軍基地の警備員によって逮捕された事件について全国メディアも伝えていたが、「報道特集」(TBS)や「ニュースステーション」(テレビ朝日)で、基地をめぐる沖縄の歴史が強調されていたことは非常に重要なポイントだと思う。

どこの地域でも新たに基地をつくるとなれば反対だろう、くらいにしかみられなければ、辺野古の新基地建設に対する反対運動は日本どこでもありえることとして矮小化されかねないからだ。

沖縄の反基地運動を考える際には、一つには、太平洋戦争で沖縄は本土決戦のための「時間稼ぎ」や「捨て石」にされ、戦後27年間米軍統治下に置かれたこと、そして、もう一つには、1950年代に本土で反基地運動が盛り上がったため、海兵隊が本土から沖縄へ移転したことを忘れてはならない。

海兵隊の本土から沖縄への移転については、当社発行の『いかに「基地の島」はつくられたか』が次のように説明している。 

沖縄に駐留する中心兵力の第3海兵師団は、太平洋戦争開始後の1942(昭和17)年9月、カリフォルニア州サンディエゴで創設され、ガダルカナル島やグアム島など太平洋上の激戦地を転戦し硫黄島の戦いにも参加した。日本の敗戦後はいったん解散したが、朝鮮戦争の勃発を受けて1952(昭和27)年1月、再結成。ヘリコプターを使った上陸作戦、空中からの攻撃、核兵器やミサイルからの防御など、朝鮮戦争で学んだ教訓を織り込んだ訓練を受けた。

朝鮮戦争の休戦協定が締結された直後の1953(昭和28)年8月、第1海兵師団を支援する目的で日本に到着。キャンプ・フジやキャンプ・ギフなど日本各地に配備されたが、1956(昭和31)年に司令部が沖縄へ移転した(第3海兵師団の多くは1950年代後半、沖縄に移ったが、一部は岩国やハワイに配備された)。

なぜ海兵隊が本土から沖縄へ移ったのか。明確な理由を示した米軍関係文書は見つかっていないが、沖縄の方が配備しやすかったというのが専門家の見方のようだ。前章の「本土における反基地闘争のうねり」で見たように、駐留アメリカ軍に対する反発はかつてないほど高まっていた。朝鮮戦争によって、後方支援基地として日本の価値を再確認したがゆえに、地上軍を配備し住民の反発や関係悪化を招くことは避けたいと考え、当時はアメリカ軍が統治し司令官の判断ひとつで決定・実施できる沖縄を配備先として選んだとみられる(★1)。簡単にいえば、つくりやすいところにつくったということである

1:NHK取材班『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』、林博史「基地論――日本本土・沖縄・韓国・フィリピン」『岩波講座 アジア太平洋戦争7 支配と暴力』、屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』」(『いかに「基地の島」はつくられたか』より)











【代表・高橋哲朗プロフィール】

1961年、埼玉県生まれ。全国紙の記者を経験した後、ブラジル、オーストラリア、アメリカで記者、編集者活動。沖縄移住後はフリーランスのライター、編集者を務めながら、2009年に出版社の沖縄探見社を設立。