沖縄を深く知るためのガイドブック
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最新トピック

普天間の過去と今がみえる嘉数高台

宜野湾市の南端に近い嘉数高台公園は住宅街の中にあり、公園として珍しい施設があるわけではないが、近年、修学旅行から政府関係の視察まで多くの人が訪れる。標高90メートルの高台に設けられた展望台からは、名護市辺野古への移設をめぐり、たびたび全国ニュースに取り上げられる米軍普天間基地が見渡せるからだ。新型輸送機オスプレイをはじめ、軍用ヘリ、空中給油機、大型輸送機など見慣れない航空機が離着陸を繰り返し、日米安保が今も着実に動いていることを実感できる。

この高台公園では、日本の安全保障の過去にも触れられる。太平洋戦争末期にあたる1945年4月、沖縄本島中部に上陸した米軍主力部隊と日本軍沖縄守備隊が初めて激突。嘉数高台は、首里に置かれた日本軍司令部の第一防衛線の中心となった。兵力や装備で圧倒的に不利な日本軍がとった戦略は持久戦だった。縦横にトンネルを張り巡らせ、地下にもぐって徹底抗戦を図った。本土決戦の準備を進めるため、米軍をなるべく消耗させ、本土進攻をおくらせることが狙いだった。

高台の中腹には今も地下壕への入り口がみられる。頂上付近には当時のトーチカが残るが、厚さ75センチもあるコンクリートの鉄筋がむき出しになるほど破壊され、米軍攻撃の激しさを物語る。日本軍は2週間余り、第一防衛線に踏みとどまったが、代償も大きかった。嘉数地区の700人近い住民の半数以上が亡くなった。兵士も急造爆雷を背負って米軍戦車への体当たり攻撃を仕掛けるなど消耗も激しく、本島中部の戦闘で日本軍守備隊10万人余りのうち6割が失われた。嘉数高台付近で戦った日本軍には京都出身者が多かったことから、頂上付近には慰霊碑「京都の塔」が建てられている。











変わりゆく那覇のスピード

  

那覇市の牧志市場界隈は1カ月、2カ月ぶりに歩くと、だいぶ店が入れ替わっていることに気づく。「儲かる」「儲からない」を基準にして迅速に店の開け閉めに踏み切っているからだろう。これは牧志界隈に限らず、沖縄県は人口が増え続ける上、観光客数も伸び、官民問わず大量の資金が流れ込んでいる。ビジネスチャンスを当て込んで投資しようとする人々が後を絶たない。再開発の名のもとに、わずかの間のうちに風景が変わっていく。

 市場界隈で今、劇的に変身を遂げているのが農連市場とその周辺区域だろう。先日、市場内の太平通りを抜けて訪れてみると、北半分の区域はいったん更地になり、真新しい学校の建物と高層住宅がそびえていた。フェンスに描かれた予想図によれば、隣には今風のショッピングセンターのような建物が出現するらしい。南の端の方に農連市場の一部が今でも店を開いているが、人通りも少なくどこか取り残されたような雰囲気が漂う。洋服を売る女性は「最近は人が来なくなってね」と淋しげだった

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玉陵で感じる死者との距離

 首里城から百数十メートルほど那覇市中心方面(西)へ下ったところにある玉陵は、琉球王国時代の王家の墓である。両側にガジュマルやフクギが植えられた参道を進んで二つの石門をくぐると、目の前に広がる。

全体的に三角屋根の家型をしていて、屋根の中央には、石獅子が雄叫びをあげ、左右の両端近くに乗る石獅子は、毬紐をくわえたり、子獅子と戯れたりしている。いずれにせよ、悟りの世界とはほど遠い煩悩たっぷりの表情を浮かべる。壁には、麒麟、龍、獅子、コウモリや牡丹を掘り込んだ石の欄干がめぐらせてある。死者を葬るところというよりは、ややコンパクトな石の王宮という印象だ。

実際、玉陵が造られた1501年ごろの首里城正殿を真似ているといわれる。当時の正殿は、赤瓦の現在とは異なり板葺の屋根だった。あの世でも、現世と同じ暮らしを送れるようにという思いが込められていたのかもしれない。

沖縄では本土とは異なる死者の弔い方が長年続いた。洗骨葬であり、玉陵でもこの方式で王族たちは葬られてきた。いったん、遺体を墓室に納めて白骨化させた後、泡盛や水で骨を洗って容器に入れて再び墓の中に葬る。死者はそのままでは穢れがあるが、骨を洗うことによって子孫に幸福や豊穣をもたらす祖霊になるという思想があるという。死者は遠くに去る存在でもなければ、忌み嫌うべき穢れでもなく、身近なところに存在し現世の私たちを守ってくれる神のようらしい。



 

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首里城周辺

玉陵で感じる死者との距離

 

 首里城から百数十メートルほど那覇市中心方面(西)へ下ったところにある玉陵は、琉球王国時代の王家の墓である。両側にガジュマルやフクギが植えられた参道を進んで二つの石門をくぐると、目の前に広がる。

全体的に三角屋根の家型をしていて、屋根の中央には、石獅子が雄叫びをあげ、左右の両端近くに乗る石獅子は、毬紐をくわえたり、子獅子と戯れたりしている。いずれにせよ、悟りの世界とはほど遠い煩悩たっぷりの表情を浮かべる。壁には、麒麟、龍、獅子、コウモリや牡丹を掘り込んだ石の欄干がめぐらせてある。死者を葬るところというよりは、ややコンパクトな石の王宮という印象だ。

実際、玉陵が造られた1501年ごろの首里城正殿を真似ているといわれる。当時の正殿は、赤瓦の現在とは異なり板葺の屋根だった。あの世でも、現世と同じ暮らしを送れるようにという思いが込められていたのかもしれない。

沖縄では本土とは異なる死者の弔い方が長年続いた。洗骨葬であり、玉陵でもこの方式で王族たちは葬られてきた。いったん、遺体を墓室に納めて白骨化させた後、泡盛や水で骨を洗って容器に入れて再び墓の中に葬る。死者はそのままでは穢れがあるが、骨を洗うことによって子孫に幸福や豊穣をもたらす祖霊になるという思想があるという。死者は遠くに去る存在でもなければ、忌み嫌うべき穢れでもなく、身近なところに存在し現世の私たちを守ってくれる神のようらしい。







船がさかのぼった松川地区 

 

 日常の風景は見慣れてしまうと、ずっと昔から同じ風景が続いているような気分になる。これには良い面と悪い面がある。良い面は、ずっと昔から続いていると思えば、現状を落ち着いた気持ちで受け入れ精神的に安定する。悪い面は危機感を失うこと。目の前の現状はどんどん変わっているのに、それを忘れ安易に受け入れる。今後も変わることに対して無関心になる。

 

 那覇市松川地区の茶湯崎橋跡に立つと、往事を想像することは難しい。那覇から首里に向けて坂道が始まる琉生病院前で、現在の主要道路ではなく右(南)側に曲がったところが旧道だが、そこに茶湯崎橋跡がある。現在、川幅は2メートルほど、水深は10センチあるかどうか。真嘉比川という名前がついているが、排水路のような小さな流れであり、行き交う人もほとんど気にとめないないだろう。

しかし、琉球王国時代には、現在の何倍も川幅や水深があり、水上交通における首里の玄関口だった。帆を張った山原船などがここまでさかのぼり、人や荷物の積み下ろしをしていたそうである。上流にダムが建設され、周辺の開発によって川の流れが変わることは考えられるが、荷物や人を積んだ船がさかのぼる姿まではなかなか思い描けない。









感謝の気持ちを忘れない沖縄

~松と水に恵まれた松川地区~

 

 那覇市の松川公民館の横には2つの小さな碑が立つ。1つは水神の碑である。松川集落には3つの池が生活用水や防火用水に利用されていたが、都合により埋め立てることになり、その3つの池の神を祀っている。

 もう1つの碑には「松川村御風水神」「村中軸」「唐御通し」「糧シディ毛」の4つの名前が刻まれている。最初の「風水神」は村の守り神であるが、他は測量基点、芋、農作業をする高台を意味する。なぜ碑に名前を刻むのかと思うものばかりである。「測量基点があります。ありがとうございます」「芋のおかげで生きられます。ありがとうございます」「便利な作業場があります。ありがとうございます」など、何にでも感謝の気持ちを持ち続けてきた表れらしい。

 那覇市内で首里地区を高台とすれば、そのふもとに位置するのが松川地区。高台から下ってきた水脈が豊富で水に恵まれ、琉球王国時代は稲作が盛んだった。集落内にはいくつもの共同井戸があった。水道が普及すると使われなくなったが、正面は人が落ちないように金網を張り、それ以外の周りをコンクリートで囲んでいる。自分たちの祖先の命を繋いでくれた井戸を感謝の気持ちを忘れないため保存し拝所にしている。

 集落内の拝所を回って手を合わせていると、少し柔らかな気分になれる。感謝するとは、頭を下げたりへりくだったりすることが目的ではない。いろいろなものに支えられて命があることに気づくため。命がある幸運を実感できれば、多少の不平不満があっても気にならない。ちょっといやなことがあっても「何でおれがこんな目に遭わなければならないのか」と愚痴る自分が恥ずかしくなる。









心なごむ首里の路地裏

10月に入って暑さも大分やわらぎ、風も爽やかさをまとう。ふらりと散歩をしてみようかと思う。

首里の街は、大通りから一本裏道に入ると、そこに住んできた人々の息遣いを感じられる細い道が入り組む。高台にありながらも水に恵まれ、水のある風景が随所に織り込まれている。自分の内部を循環する水も共鳴し心なごむ。

右の写真は、そんな路地にかかる小さな橋である。幅はまさに一人分。すれ違うには譲り合うしかない。建物と建物の近さは、気持ちの近さに通じるかもしれない。身の丈にあった大きさは、風景にすっぽり収まるようで気分が落ち着く。やさしく包まれているかのように思えてくる。








首里城で感じる歴史の感触

 

先日、琉球国王とかかわりの深い円覚寺跡の発掘調査現地説明会に参加した。午前と午後の2回に分れていたが、午前中だけでもざっと50人のほどはいたろう。感心の高さに少々驚いた。

第2尚氏の菩提寺であり、琉球における臨済宗の総本山だった円覚寺は首里城の南隣に位置し、総門と方生池だけが復元されている。今回、調査の対象は、総門を通って方生池を渡り石段を上ったところにあった三門周辺。門の柱の礎石、門の周りを巡らされた石畳、基礎部分に深く埋められた石積みなど、発掘品の中心は石だった。

発掘現場における石は、遺骨のような厳粛さを帯びるから不思議である。表面には歳月の流れが刻まれ、何気ない配置にも当時の人々の意志が埋め込まれる。雑然ささえ感じる散らばり具合にも日々の営みが焼き付けられる。石は常に語りかけてくる。オリジナルが持つ力であり歴史の感触といえるかもしれない。今後、発掘調査の結果をもとに三門が復元されるそうだが、復元前の石だけというのも、建物がまったくない分、想像力を刺激される。








首里城に琉球独自の漆塗り技法

先日、首里城の漆塗りに関するシンポジウムが沖縄県立美術館・博物館で開かれた。興味深かったのは、首里城の外壁は最初、本土仕様で漆が塗られ、その後、琉球独自の仕様で塗り直されたことだ。研究者が発表した。

それによれば、首里城公園が1992年に開園したときは、首里城の外壁に漆が塗られていたことは知られていても、具体的な技法まではわからず、本土仕様で塗られていた。ところが、沖縄サミットが開催される2000年までには、漆の色あせや剥落が目立つようになった。応急措置で塗り直したものの、2004年に再び補修が必要になった。

本来、漆は長持ちする塗装のはずだが、沖縄の強い日差しや風雨によって短期間で色あせや剥落が起きているとみられた。そこで、琉球王国時代、工芸品の漆塗りを担当した貝摺奉行所の文書を研究。当時の漆塗り技法を探り、2010年正殿への塗装に試みた。6年経過しても色あせや剥落が起きないことから、王国時代の技法は沖縄の気候・風土に対して優れた耐久性を持つことが証明された。









首里城城郭の曲線美を味わう

 那覇市の首里城で、歓会門から入った城郭内側から正殿までの区域は四六時中、観光客でにぎわっているが、時には歓会門に入らず、城郭に沿って外側を歩けば、別の角度から首里城を味わえるかもしれない。

 何よりもよいのが、ほとんど他に人がいないことだ。静かに落ち着いた気分で風景を独占できる。目の前に広がるのは、那覇・首里の町並みと城郭。特に首里城については城郭以外の建築物はなく、余分な形や色が捨象されて、琉球の美学といわれた石垣の曲線が際立つ。灰色の重厚な城郭と赤瓦の多い家々や緑の草木のコントラが美しく、抽象化された絵画を眺める気分である。












首里城から最高の展望 

  

 誰でも自由に入れる場所で沖縄最高の展望ポイントは、首里城の「西のアザナ」だろう。城郭の西の端、少し競り上がったところに当たり、「アザナ」とは、日の当たる高い場所という意味である。

首里城から見て、西、南、東の三方には、首里城より高い山や建物はないため、その大半を見渡せる。那覇市、浦添市、宜野湾市など市街地が繋がっていて、無秩序なエネルギーを内蔵し成長してきた一つの巨大都市を眺める気分だ。コンクリートの箱型建物が多いことが、都市の無機質な感覚を加速させるかもしれない。

天気のよい日には、海岸が緩やかなカーブを描き読谷村の西端、残波岬まで目で追える。那覇市市街地の西の先には、慶良間諸島の島影も映り、沖合の風景に変化を与える。








仏教と琉球王国

 年間200万人以上の観光客が訪れにぎわう首里城の近くで、ほとんど人影もみえず侘しいたたずまいを見せるのが円覚寺跡である。総門が入り口にそびえているものの、その向こうには四角い池と石橋、それに石段と石垣の一部が残るばかりである。池の水は濁り、中から枯れた茎のようなものが何本も水面から顔を出す。首里城と同様に、沖縄戦で石橋を除き寺の建物の大半は焼失したまま。総門は戦後建て直されたものの、順調に復元が進む首里城とは対照的である。

円覚寺は、沖縄における臨済宗の総本山にあたり、放生橋と放生池の先には、山門や仏殿など七堂伽藍と呼ばれる本格的な寺院建築物が配置された。第二尚氏の始祖・尚円の息子にあたる尚真(第三代)が、日本の禅僧の教えを受け、父を祀るために1492年に創建。以後、第二尚氏の菩提寺となり、歴代王の肖像画や位牌が安置された。

放生橋は琉球王国最古の石橋であり、欄干の石は中国から取り寄せ王国最高傑作の彫刻が施されたといわれるなど、寺院建設には相当な労力と財力を費やされた。仏教は日本や中国で関連する芸術や文化が発展して、少なくとも支配階層にとっては最高の教養だったのだろう。結局、仏教は沖縄の庶民にはあまり根付かなかったものの、国の基礎を築こうと、日本から禅僧を招き、彼らを通じ仏教だけでなく、文字、文化や芸術などを吸収しようとした王府の意欲がうかがわれる。今後、山門が復元される計画という。









戦争の記憶をとどめる首里城のアカギ 

 那覇市の首里城で守礼門から城の内部に向かって歩くが、途中から歓会門に通じる道ではなく、円覚寺や県立芸術大学に通じる左脇の道を下ると、久慶門の斜め向かいあたりに目を引く大きなアカギがそびえる。普通の木ならば、地面をがっしり掴んだ根の上に太い幹が乗り、上に行くに従って幹は細くなり枝分かれしていく。しかし、このアカギは無数の手と足を持つ昆虫のような容貌をみせる。地上数メートルの高さのあたりから、上空と地面に向かって四方八方に枝、幹、根を伸ばす。アカギと寄生するアコウという二つの木からなる。

特に注目していたわけではなく、生命力の爆発を思わせる亜熱帯らしい木がある、くらいにしか思っていなかったが、最近、このアカギが沖縄戦とかかわり深いことを知った。戦中の写真では、首里城一帯はほとんど瓦礫の山であり、この木が生えるあたりも、焼け残ったアカギの幹が何本か立つだけであった。1950年代の写真では、あたりには、このアカギの幹が1本ぽつんとそびえるものの、その後の台風などによって被害を受け枯れた。ほかのアカギと同じように消え去る運命だったが、アコウが木の上部に寄生して枝や根を張ると、ちょうど枯れたアカギに包み込むように固定。首里城が復元され戦災の名残が消える中、偶然のいたずらが戦災アカギを今日まで残すことになった。











ツワブキと首里城 

 

那覇市の首里城内部や周辺でツワブキが花をつけている。厚みと光沢があり深緑色の丸い葉と、細い線でさっと書いたような遠慮がちな黄色い花は、沖縄の城を凛として見守ってきたように思え、栄枯盛衰の時代を経た重厚な石垣に合っている。彩りの少ない季節に花をつけ、行き交う人たちの目も楽しませてくれる。今帰仁城跡や中城城跡にもツワブキはみられ、特に中城城跡ではボランティアの人たちが積極的に植栽し、毎年12月には「ツワブキ祭り」が開かれる。もともと海に近い海岸線に自生するが、日陰でもよく育ち、冬でも葉が枯れずに青々と茂るため、庭園の下草に使われることもあるという。




首里城の祈りを再現 

那覇市の首里城で1月24日、琉球王国時代の祭祀行事「百人御物参(ももそおものまいり)」が再現された。儀式ではまず、濃紺の着物の男性役人たちを前と後ろに配しながら、白の鉢巻きや着物をまとった神女たちが、奉神門の奥から現れる。先頭の女性はリーダー格らしく、霊力の象徴である勾玉を首にかけ、続く女性2人がゆっくりと太鼓を叩く。その後ろの女性は御櫃や大きな徳利のような容器を持ち続く。この日は風が強く冷え込みも厳しかったが、全員、すり足のように落ち着きを払って同じペースで歩き、表情はほとんど変えない。琉球の古典的な踊りのような体の使い方である。

奉神門に近い首里森御嶽の前に全員が並ぶと、3人の神女が御嶽(拝所、聖地)のすぐ前まで進み出て、持ってきた容器を供える。3人の神女が跪き拝むと、後ろの者たちも体を前に傾け祈る。これを何度か繰り返す。本来は、正殿前の御庭や京の内の拝所ででも同様に祈りを捧げるが、この日は天候のため、首里森御嶽だけで終わった。

「百人御物参」は、首里城の神女たちが年に数回、城内の御嶽(うたき)を巡回して祈りを捧げ、国王の長寿や子孫繁栄、国土の安全、五穀豊穣、航海安全を願う。城内に多くの聖地を抱え、祭祀が国家行事になっていたところは、本土の城と異なるところだろう。







多くの聖地を抱える首里城 

那覇市の首里城で券売所などがある「下之御庭」の南側、石垣の向こう側に広がるのが「京の内」である。下之御庭と京の内を隔てる石垣の立派さから、もう一つの城があるかと思えるが、中に入ると、小さな森が広がるばかりである。しかし、「御嶽(うたき)」と呼ばれる聖地が何か所も存在する。ここが、本土の城と大きく異なるところだろう。軍事や経済の視点だけではなく、宗教の視点からも城を築き、内部に多くの聖地を抱え込んでいるのである。しかも、仰々しいご神体を祀り上げるのではなく、何気ない草木や石を聖なるものとして扱い尊んでいる。おそらく、神道や仏教が広まる前の日本では、このような形の宗教が一般的だったのではないだろうか。







首里城の未公開区域を歩く

 

1月16日、首里城・御内原で開かれた未公開区域の見学会に参加した。御内原(オウチバル)とは、国王や王族の私生活スペースに当たる。男子禁制だったため、江戸城の「大奥」になぞらえることもある。公開されている御庭とは正殿をはさんで反対側の区域であり、御内原区域の広場であり儀式の場である後之御庭(クシノウナー)と、これを囲む形で女官居室や世誇殿が建設されている。「女官居室」は名の通り、御内原で働く女官たちの日常生活の場である。「世誇殿」は平時、王女の居室として使われ、国王が死去した際には、新しい国王の即位式が催される。

その後、東のアザナへ向かう。首里城の城郭で一番東であり一番高い場所である。正殿など見慣れた首里城の建物がまるごと反対側から眺められ、背景には那覇の街並みが広がる。まだ整備中のせいもあるが、公の場であり華やかな飾りの多い公開区域と比べると、全体的に装飾が少なく孤独な愛憎劇の匂いが漂う。首里王府を内側から覗き見たような気分になる。手前には、死去した国王が安置される寝廟殿があったスペースとその入り口である白銀門が見える。白銀門はほかの門と比べて装飾が少なく小さい分、厳かな雰囲気を感じる。国王にも平等に死が訪れると語るがごとく。






首里城の時間感覚 

首里城で歓会門、瑞泉門そして漏刻門をくぐり抜けると、東シナ海や那覇・首里の町並みを見渡せる展望台にたどりつく。その横に、あまり目立たずひっそりと、日影台と呼ばれる日時計がある。木の円盤の中央に細長い鉄の棒がささっているだけの、非常にシンプルな道具だが、苦労して製作したようである。

日時計が作られる以前は、漏刻門に設けた水時計だけで時間を測っていた。これについて1456年の朝鮮の記録があり、「我々のものと何ら変わらない」と書かれている。日影台の円盤には十二支が書かれているところから察するに、江戸時代の日本と同じように不定時法が採用されていたのだろうか。1時間の長さが常に一定の現代とは異なり、日の出から日没と日没から日の出までをそれぞれ6等分して時間を決める方法である。

もし、そうならば、一定のスピードで水が落ちる水時計では、季節ごとに変わる時間を正確に測定することは難しかっただろう。いずれにせよ、従来の水時計では不完全として、日影台(日時計)を1年半かけ1739年に完成した。太陽の角度は少しずつ変化するため、24節気ごとに時刻版や角度も変えたという。不定時法ならば水時計よりも日時計の方が時間測定に適しているだろうが、当時の科学知識では太陽の運行を予測し正確に時間を測ることは容易でなかったはず。国家の組織が大きくなり運営が複雑になるに従って、権力者たちにとって時間を正しく示す必要性は高まったのだろう。

それにしても、日時計ならば30分ごとの時間表示が精一杯だろう。各自が時計と携帯を持つ現代から考えれば、行事・儀式や組織運営をどう行っていたか想像しにくい。おそらく、起きる可能性がある不手際やトラブルについて事前に予測しそれらに対して備えていたのだろう。逆に、現代では時計や携帯があるから「どうにかなる」と備えを怠りがちかもしれない。先日も、知人と地下鉄の駅で会うことになっていたが、細かい待ち合わせ場所を決めていなかった上、相手が地下通路にいたせいで電波が届きにくく、さらに携帯のバッテリーも切れ、相当パニックになってしまった。






美しいアーチの石橋

 

 那覇市から豊見城市や糸満市方面へ向かう時、よく使うのが真玉橋である。片側2車線で交通量の多い場所であるが、その脇にひっそりと、琉球王国時代に建てられた石橋の一部がたたずむ。緩やかなアーチを描く石積みの橋脚部分である。こんな橋が国場川にかかっていたら、さぞ情緒あふれる風景になっていただろう。

 横にある説明板によれば、1522年に木造の橋がかけられ、1708に石橋に架け替えられた。首里と軍事的に重要拠点である那覇港や島尻地方を結ぶ交通の要衝であり、5つのアーチが連続する構造で琉球文化を代表する橋だったが、1945年の沖縄戦で破壊されたという。漫湖から国場川にかけて歩きながら、王国当時に架かっていた石橋を想像すると、那覇が水と石の都に思えてくる。







ライトアップされた首里城

 沖縄も午後6時になると、ほぼ真っ暗。昼間の時間が短くなると何か少し寂しいような、損をした気分になりがちだが、夜には夜の良さがある。余分なものが捨て省かれ、より本質が際立つこともある。たとえば、穏やかな表情の首里城も昼間とは違った雰囲気が漂う。赤い瓦や壁をひきたてる青空が消え、遠景は闇に沈む一方、石垣や建物は陰影を増し重厚感が加わる。城全体が古色をまとい、伝説と怨念が辺りに垂れ込めていた時代まで一気にさかのぼる。巨大な魔物が潜む館のように思えてくる。






「座る」文化からみた首里城


        (正殿2階の玉座)              (正殿1階で王が座る「御差床」)           (国王が日常の執務を行う「御書院」)

琉球王国の中心である首里城は、日本と中国の文化が入り交じっているという点で興味深い。例えば、「座る」文化として、中国では古くから椅子が使われてきたのに対して、近代化以前の日本ではあまり椅子は使われなかったが、この点でも両国のスタイルがミックスされているようだ。

主に国王や親族の儀式などに使われる正殿2階では、王の座る場所は椅子。豪華絢爛の装飾が施され「玉座」と呼ぶのにふさわしい。正殿前の庭に役人や家臣たちを整列させて催す儀式の際には、2階の扉が開けられ、国王は専用の折り畳み式の椅子に座って謁見する。

一方、国王が自ら政治や行事を執り行う場として使われた正殿1階では、王の座る場所「御差床(うさすか)」は椅子ではなく畳を小さく切り取ったようなものである。また、国王が日常の執務を行う「御書院」は床の間を供えた畳敷きの部屋である。







首里城が放つ空気感

 

首里城のまわりを歩いていると、歴史的な事実とは関係なく一つの考えが浮かんでくる。国王の居城でありながら、なぜ威圧感がないのか。日本国内にしろ外国にしろ、支配者の居城はたいてい周囲を威圧するような空気を放つ。しかし、首里城は周囲の建物よりも一段高く大きな建物ながらも、権力の持つ恐怖や非人間性を感じさせない。

全体の印象としては神社に近い気がする。実際、正殿には日本の神社仏閣に使われる唐破風があり、赤く塗られたところも神社のイメージと重なる。周囲を石垣で囲まれているが、女性的な曲線が多い。建物に施されている彫刻や絵も、ユーモラスなものも少なくない。特に正殿の欄干のシーサーは、玉と遊んでいたり親子でじゃれあったりして(上の写真)微笑ましい。こうした印象は、首里城が軍事や政治の機能だけでなく宗教的な役割も果たしていたことと関係があるのかもしれない。








首里城と龍の関係を考える

  

首里城正殿を訪れてまず目につくのが、龍の姿である。入り口正面には、石でできた大きな龍の頭部の彫刻が対で立ち、階段を上がったところにも小さな龍の彫刻が並ぶ。さらに、奥の赤い2本の柱やその上に乗る唐破風にも、金色の龍が描かれている。屋根の両端にも龍頭の飾りが組み込まれている。建物の内側の柱や玉座にも龍の絵や彫刻が施され、国王の衣装にも龍が登場する。特によく目にするのは、何でも願いが叶うといわれる火焔宝珠をはさむ形で二頭の龍が向かい合う図柄である。「ドラゴンボール」の世界を思い浮かべてしまう。龍は国王や権力の象徴といわれるが、これほどまでに正殿を龍づくしにする必要があるのだろうかと思う。

現代の感覚と異なり、当時の人々はこれがおめでたいとか、ご利益(りやく)があ徹底的文様図柄使。「」「どいないいう見方企業トレードマーク感覚ろう一方、という「権力幸運象徴埋めよう不安裏返科学技術現代よう水準ないら、天変地異がいようない権力ど、ようる。権力孤独だ。そう不安空虚手立図柄居城をいっぱいろう。

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現代の感覚と異なり、当時の人々はこれがおめでたいとか、ご利益(りやく)があ徹底的文様図柄使。「」「どいないいう見方企業トレードマーク感覚ろう一方、という「権力幸運象徴埋めよう不安裏返科学技術現代よう水準ないら、天変地異がいようない権力ど、ようる。権力孤独だ。そう不安空虚手立図柄居城をいっぱいろう。








沖縄の城の表情を読む




 
  (自然石をそのまま積み重ねた今帰仁城)     (石を直方体に加工し積み重ねた座喜味城)
  
 (優美な曲線を描く座喜味城)             (石を多角形に加工し噛み合わせた首里城の石垣)

 12月6日から7日にかけて今帰仁城、座喜味城、首里城を回り、改めて沖縄の城はそれぞれ違った表情を持ち、個性的であることを感じた。

 共通するのは、石垣が美しい女性的な曲線を描いているところである。軍事的な拠点であった本土の城とは異なり、聖域や祭祀の場という要素も濃かったようだ。

 今帰仁城は、県都・那覇から遠く離れ、自然豊かなヤンバルの地で険しい地形を生かして建てられたせいだろう、全体的に荒々しさを感じる。15世紀、後の琉球王国となる中山王国によって攻め滅ぼされ歴史が、さらに寂寞感を添える。石垣は、自然石をそのまま積んだ「野面積み」という技法で造られたが、城を包み込む自然や歴史にぴったり合っている。技術的な面とともに、この城の周辺で採掘できる石が硬く加工しづらかったせいもあるそうだ。スペインに滅ぼされたインカ帝国の遺跡に通じるものを感じる。

 座喜味城は、今帰仁城や首里城に比べると、こじんまりとしている。城の輪郭は優美の曲線を描き、他の2つの城と比べても祭祀的な要素が強いように思える。石垣は、石を直方体に加工し積み重ねた「布積み」と呼ばれると技法が使われている。人家と畑が入り交じる読谷村や東シナ海が見渡せる風光明媚な小高い丘にあるが、訪れる観光客は少なく、人里離れた地に住む貴婦人のイメージである。

 首里城は言わずと知れた国王の居城であり華やかさと力強さを併せ持つ。石垣の技法でみると、最も進んだ「相方積み」が使われている。石を多角形に加工し噛み合わせることによって、耐久性や強度に優れる。





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削除された「慰安婦」「住民虐殺




1つ前の記事で触れた旧日本軍(第32軍)司令部壕については、近くに設置した説明板に関して巻き起こった議論を頭に入れておきたい。説明版の設置にあたっては、有識者でつくる「説明板設置検討委員会」(委員長・池田榮史琉大教授)がまとめた文案から「慰安婦」「日本軍による住民虐殺」の文言を沖縄県が削除したことが2012年2月、明らかになった。ともに、前の記事で紹介した証言に含まれる内容である。


地元紙の報道によれば、2011年に開催した同委員会で「第32軍司令部壕内のようす」として「1000人余の将兵や県出身の軍属、女性軍属、慰安婦などが雑居していました」「司令部壕周辺では、日本軍に「スパイ視」された沖縄住民の虐殺などもおこりました」と記した文案をまとめた。ところが、この案に対して異論が寄せられたことから、県の判断で「慰安婦」の文言と、住民虐殺に関する「司令部壕周辺では」の文章全体を削除することが決められた。


説明板のための有識者委員会がまとめた文案を、県が一方的に変更するとは何とも理解に苦しむところ。政治的な意図を感じずにはいられない。有識者委員会は文言の復活を求めたが、県側はこれを拒み、2012年3月に説明板が設置された。











「首里城」の読み方と目的


 沖縄民俗の研究で知られる仲松弥秀氏は著書『うるまの島の古層――琉球弧の村と民俗』(梟社 1993年)の中で、「首里城」の読み方に触れている。それによれば、同氏が沖縄県師範学校に在籍していた大正末期から昭和初期にかけての時期、王府所在地は「首里グスク」または「御(う)ぐすく」と呼んでいたが、いつのまにか「首里城(じょう)」という名称に変わっていたという。

「本土各府県と同様、沖縄にも「城」があったとした方が、同じように肩を並べることができるといった考え方からの産物であったとしたら、実にさびしい迎合であり、自己卑下の所産といえないだろうか」と推測する。

 なぜなら、軍事的施設にみえることがあるものの、あくまでも「グスク」は聖域とする説をとっているからだ。「本土における「城」なるものは、自己利益と功名心にもとづき、人民を圧服・支配する目的で造られたものではなかったか」「沖縄では地域住民と共に、神を崇敬し、人民と共に歩み、貿易によって利益を追求した城状のグスクがあったのみである」「人民抑圧の野蛮きわまりない砦であった「城」に名称変えする必要があったのだろうか」と嘆く。

 別の研究家の名嘉正八郎氏は『日本の神々――神社と聖地 第13巻 南西諸島』(白水社 2000年)の中で、グスクについて聖域説、集落説、按司の城説などを紹介しながらも、初期のグスクに掘切があることに注目。「12世紀後期から13世紀初期ごろに主として防禦を目的に創造され、重要な付帯施設として聖域または祭祀の場が設置され、時代が下るにしたがって、防禦と平行して祈願所(拝所)としての価値が大きくなったのであろう」としている。









首里城に残る日本軍司令部壕跡





首里城は沖縄旅行で定番の観光先の一つであるが、すぐ近くにある旧日本軍司令部壕を訪れる人は少ない。しかし、沖縄戦でここに司令部が置かれたことは、首里城をはじめとした琉球王国の文化財の命運に影響を及ぼしたことは確かであり、首里城に来た人には立ち寄ってもらいたい場所である。首里城は沖縄戦によって焼け野原と化し、現在の建物はすべて戦後復元されたものだ。


守礼門から首里城の横を通り県立芸大に向かう道を、途中で左に折れて龍潭池と円鑑池の間にかかる龍淵橋につながる階段を下りて、橋にたどり着く手前のところ、道の左側に案内板があり、さらに左の森の奥にある丘の斜面にコンクリートで固めた壕の入り口がみえる。司令部がなければ首里城は破壊を免れたとはいえないが、司令部があったことによって米軍から集中的に攻撃を受けたことは否定できないだろう。


また、司令部が置かれたということで「スパイ」に敏感になっていたとみられ、弊社の『沖縄戦の「狂気」をたどる』は、司令部壕に関連して次のような悲劇的な目撃証言を紹介している。

玉城村(現在の南城市)出身の男性(当時18歳)は鉄血勤皇隊の沖縄師範隊(※)として首里の軍司令部の壕掘りに携わっていたが、1945年5月初めの夕暮れ、「スパイ」の処刑現場を目撃した。

32軍の第6坑道口に、「上原トミ」と呼ばれる女性が憲兵によって連行されてきた。女性は30歳くらい。半袖、半ズボンの軍服姿で頭は丸刈りだった。「『スパイをこれから処刑する』と憲兵。沖縄師範学校の田圃(たんぼ)の中、坑口から20メートルほど離れた電柱にトミさんはひざまずいた姿勢で縛り付けられた。壕内にいた朝鮮人従軍慰安婦が4、5人、日の丸鉢巻を締めてトミさんの前に立った。手には40センチの銃剣が光っている。

慰安婦が憲兵の『次』『次』との命令で代わる代わる銃剣をトミさんに突き刺した。憲兵は次に、縄を切ってトミさんを座らせた。少尉か中尉だった。『おれは剣術は下手なんだがなー』と言って日本刀を抜き出した。その軍人はトミさんの背後に立ち刀を上段から振り下ろした。ふた振り目に首が切り落とされ。その時だ。周りで見ていた兵隊や鉄血勤皇隊の何人かが駆け寄り、土の(かたまり)や石をトミさんに投げつけた」(『玉城村史 巻 戦時記録編』P760761

この男性は戦後145年たったころ、現場を訪れ手を合わせた。当時あの状況の中でスパイなんてありえないとして、戦後50年余りにわたって、「トミさん」のことについて書こうとするが、胸が苦しくなって書けないでいたという。


※鉄勤皇隊の沖縄師範隊


鉄血勤皇隊とは、沖縄戦に兵士として動員された中学生。そのうちの沖縄師範学校の出身者が沖縄師範隊





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琉球は中国寄り?日本寄り? 


(首里城南殿)                     (正月儀式の再現で登場した国王役)

首里城を訪れて真っ赤な正殿をはじめ王国時代の建物をみると、琉球は非常に中国に近いと思うだろう。国王の肖像画などにも中国の色濃い影響を当然感じるだろう。現在の沖縄が中国に接近しかねないとするのも、このあたりを根拠にしているかもしれない。

しかし、よくよく細部に目を凝らしてみると、日本の影響を随所にみかける。正殿には「唐破風」とよばれる日本の寺院建築が取り入れられ、隣には赤く塗られていない和風様式の南殿がある。南殿は、那覇に滞在する薩摩藩士を接待する場。1609年、王国が薩摩藩に征服されて以降は、薩摩藩が常駐し監視にあたっていた。琉球は独自の王国の形をとりながらも、薩摩藩を通じ、士農分離や鎖国制度といった幕藩体制の基本的な原理を取り入れていく。

さらに注目すべきは文化の基本である文字。高良倉吉著『琉球王国』(岩波新書 1993年)によれば、1609年の薩摩侵攻以前は、王国の辞令書(公的な任職文書)のほとんどは平仮名で書かれていた。王国の共通語が首里語であり、「この首里語を表現するところの辞令書が、基本的には中世日本語のバリエーションの一つだった」と指摘する。辞令書という世界にかぎっての話だが、「文化意識の基本ベースとしては日本、現実の外交関係としては中国を意識する」とみる。16世紀から17世紀にかけて編集された琉球の歌謡集『おもろそうし』も、原文はほとんどが平仮名で書かれているという。

ちなみに、王国の辞令書は薩摩侵攻以降、漢字表記が多くなり全文漢字も現れる。王国が中国との貿易を円滑にするために、日本の関与を中国側に悟られないように気配りしていたことと関係している? とも考えたが、漢字の辞令書が増えた理由について『琉球王国』は具体的には触れていない。








どこにあるかレトロな郵便ポスト 

かつては街角のあちこちにあったが、近年はほとんど見なくなったものが2つある。1つは公衆電話ボックス。携帯電話の普及によって必要がなくなった。もう1つは円筒形の赤い郵便ポスト。絶対に動かせないという重量感とともに、道行く人々を見守るオジさんのような昭和の味わいを漂わせていたが、郵便ポストはもっと機能的でコンパクトになり、大半が無機的な四角い箱になった。

最近は円筒形のポストを見なくなったと思っていたら、首里城公園のレストセンター前にあることに気づいた。外国人観光客がポストの前で記念撮影をする姿を見て、なぜこんなところで写真を撮るのだろうと考えた。しばらく頭の中で想念がぐるぐる回るうちに、近年に見なくなった円筒形のポストであることを思い出した。














スフィンクス的なシーサーと筋肉質のシーサー




 
(首里城のシーサー)            (御茶屋御殿に置かれていたシーサー)


沖縄のシーサーといえば、顔が大きくコミカルなイメージが定着している。お土産品としてふさわしい置物の形を追究していくと、あのような形になるのだろう。首里城の門に飾られているシーサーは、顔が少々人間に近い感じがするが、体つきは犬など現実の動物を様式化したような印象を受ける。シーサーは14世紀ごろ中国から琉球へ伝わったとされるが、もともとはエジプトのスフィンクスから来ているという説がある。首里城のシーサーも人間と動物を合体させたような雰囲気があり、スフィンクスの面影があるような気もする。

一方、王家の別邸「御茶屋御殿」に置かれていたシーサーは、今にも飛びかかってきそうな躍動感があり、現実に存在する魔物のようなリアリティを感じる。体つきは筋肉質でバランスがとれている。このようなシーサーは珍しいだろう。


ちなみに、御茶屋御殿は、冊封史(中国からの使節団)や在藩奉行(琉球を監督する薩摩藩役人)を接待する施設。首里城から南東へ続く高台が途切れる崖近くにあり、識名方面や南風原町方面を一望できる景勝地としても知られた。建物は沖縄戦で焼失し、シーサーはがけ崩れの恐れがあるとして首里崎山公園に移されている。





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首里金城町の共同井戸




  
(上ヌ東門ガー)                     (下ヌ東門ガー)                    (潮汲川)


首里城に近い金城町には、石畳道から数百メートルの範囲に、「上(イー)ヌ東門(アガリジョウ)ガー」「下(シチャ)ヌ東門(アガリジョウ)ガー」「潮汲川(ウスクガー)」「新垣(アラカキ)ヌカー」などの古い井戸がある。いずれも、斜面をL字型に削り、井戸口が半円形になるように周囲に石を積んでいる。井戸口の背面を囲む石積みは、優美な曲線を描くように大小の石が組み合わされている。「上ヌ東門ガー」と「下ヌ東門ガー」は、18世紀初頭に作られた古地図にその位置が記されている。

井戸口の背面の壁に香炉が置かれたものもあり、生活の場であるとともに信仰の場でもあった。水不足に悩まされることの多かった琉球王国時代、井戸は崇拝の対象にもなったといわれるが、丁寧な石積み具合には、命をつなぐ水が湧き出す場所を敬い大切にしようとする思いが漂う。権力で造成された首里城などの石垣とは異なり、暮らしの中で使い込まれた石積みには、篤い信仰と感謝の気持ちを抱く庶民の心のひだがそのまま乗り移っているようにみえる。









国王も雨乞い祈願





  
(国王も祈願した雨乞嶽)                (崎山公園からの眺望)                (ツタ類がびっしり絡まった瑞泉酒造)


例年ならば大型連休を過ぎればすぐに梅雨に入るが、5月も半ばを過ぎ晴天が続いている。離島県の沖縄では喜んでいられない。梅雨入りの遅れは水不足を招きかねない。1981年から1982年にかけては、給水制限日数が連続326日という記録が残る。沖縄本島では北部にダムをいくつも建設し人口が密集する中南部へ水を送れるようになってからは、断水や節水に悩まされることはなくなっているものの、水不足に苦しめられた年配者の思い出はよく耳にする。

 
人間は食料がなくても何日か生きられるが、水がまったく飲めないとなると1日でも生き地獄である。上水道が建設された戦後ですら、このような状況だから、天水や湧水に頼った時代、長い河川も大きな湖もない沖縄の水事情は相当ひどかっただろう。

沖縄各地に雨乞いの御嶽があるのも、その表れといえよう。首里城の南東にある崎山公園には、「雨乞嶽(アマゴイタキ)」がある。低く円形の石積みの中央には石の香炉が置かれ、沖縄では神様が宿るとされる細長い葉のクロツグが植えられている。琉球王国時代、干ばつのときには国王自ら祈願をしたという。

当時の水不足のことを思うと暗澹たる気分になるが、この崎山公園は高台にあり那覇市南部から南風原町にかけての地域が一望できる。首里八景の一つ「零壇春晴(ウダンシュンセイ)」として「春雨の合間の眺望がすばらしい」と称えられたそうである。また、首里城の南東に広がる崎山町は全体として窪地にあるため、水には恵まれ戦前は泡盛の一大産地だったが、現在は「瑞泉酒造」が残るのみである。







首里金城町の石畳道と井戸 






首里城で守礼門をくぐった後は城内にはいらず、歩道に沿って右手(南方向)に向かい南斜面を下ると、金城町の石畳道に入る。16世紀の初めごろ建設されたといわれ、幅4メートル、長さ300メートルにわたり石が敷き詰められている。道の両側にも石垣が積まれ、赤瓦を白い漆喰で固めた琉球風民家もみられ、王国時代の城下町の雰囲気にひたれる。日本の道100選にも選ばれている。


 石畳道の半ばにある伝統的な木造瓦葺き民家「金城村屋」の横の脇道を少し入ると、地域の共同井戸だった「金城大桶川」がある。半月型の貯水池の三方に石積みが施され、特に背面は四段に分けて積まれている。大小の石が隙間なく埋め込まれた壁面は複雑に入り組み古代の神殿を思わせる。上水道が普及するまでは絶えず水不足に苦しんだ沖縄の人々の、井戸に対する感謝と畏敬の念が表れているといえよう。

さらに脇道を奥へ進むと、「仲之川」と呼ばれる別の井戸がある。「金城大桶川」ほどの緻密さはないものの、切り立った崖に丁寧に積み上げられた石組みには、土地の人々の水への深い思いを感じる。




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首里の路地裏を龍潭池から北へ






那覇市首里といえば、まず首里城に足を向けるだろうが、ちょっと離れて路地裏を歩いても、歴史を感じる古都の雰囲気を味わえる。

龍潭通りをはさんで龍潭池の向かいに広がる中城御殿跡地(琉球王国の次期国王の居城、沖縄県立博物館の跡地でもある)の脇道を入っていくと、伝説「耳切坊主」の舞台であることを示す看板がある。北谷王子に耳を切られた妖怪「黒金座主(クルカニジャーシ)」の祟りで、北谷家に男子が生まれると早死にするため、男子が生まれると大女が生まれたと嘘を言って難を逃れたという伝説である。

泣く子をあやすときに、この伝説をもとにした童歌をうたうという。泣く子供には、耳切坊主が現れ耳を切られてしまうと怖がらせ、泣き止ませようするわけである。歌の主人公は耳切坊主であるが、さりげなく登場させた王子という権力者への妬みや批判のにおいを感じる伝説である。万能に思える王子といえども、どうにもできない力が存在する。妖怪話にかこつけた庶民のささやかな抵抗が含まれるかもしれない。

さらに北へ向かうと、首里当蔵保育園の隣、右手に「安谷川獄(アダニガーダキ)」がみえる。当蔵村時代の御嶽、神を祀る場所である。『琉球国由来記』(1713年)にも名前が記され、高級女神官の首里大阿母志良礼が司る御嶽の一つという。建物と建物に挟まれた小さな空間であるが、敷き詰められた石畳道やアーチ型の石門には長い年月に絶えてきた風格を感じる。

再び北へ歩くと、びっしりツタ類がからまった長い石垣に囲まれた家が左手に現れる。琉球王国時代の士族・仲田家の屋敷であった「仲田殿内跡」である。味噌や醤油の生産もしていて王家ご用達だったそうだ。現在も「玉那覇味噌醤油」として味噌を製造している。壁に手書きで大きく「醤油」と「玉」の文字が直に書かれており、どこかユーモラスであり懐かしい雰囲気も漂う。

玉那覇味噌醤油と細い横道を挟んだ民家の脇を下ると、「安谷川」である。「川(カー)」とは井戸を意味する。1メートルほど掘り下げられ、井戸には屋根がつけられ、周囲には隙間なく石が積み上げられている。表通りからの道、さらに手前の広場まで丁寧に石が敷かれ、地域の人々がこの井戸を大切にしていたことを感じさせる。井戸の水に動きはなくなっているが、15世紀中ごろの古謡にもうたわれている。広場の奥の階段には野良猫が置物のように座っていた。緑深く静けさに包まれた、この場所の心地よさを知っているのだろう。












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那覇市中心街・市場周辺

変わりゆく那覇のスピード

  

那覇市の牧志市場界隈は1カ月、2カ月ぶりに歩くと、だいぶ店が入れ替わっていることに気づく。「儲かる」「儲からない」を基準にして迅速に店の開け閉めに踏み切っているからだろう。これは牧志界隈に限らず、沖縄県は人口が増え続ける上、観光客数も伸び、官民問わず大量の資金が流れ込んでいる。ビジネスチャンスを当て込んで投資しようとする人々が後を絶たない。再開発の名のもとに、わずかの間のうちに風景が変わっていく。

 市場界隈で今、劇的に変身を遂げているのが農連市場とその周辺区域だろう。先日、市場内の太平通りを抜けて訪れてみると、北半分の区域はいったん更地になり、真新しい学校の建物と高層住宅がそびえていた。フェンスに描かれた予想図によれば、隣には今風のショッピングセンターのような建物が出現するらしい。南の端の方に農連市場の一部が今でも店を開いているが、人通りも少なくどこか取り残されたような雰囲気が漂う。洋服を売る女性は「最近は人が来なくなってね」と淋しげだった。









沖縄のチャイナタウン

 那覇市の若狭大通りを通るとき、福州園の西隣に「何か新しい建物ができているなあ」と思っていたが、最近その何かが分かった。「久米至聖廟」と呼ばれ、儒学の祖である孔子を祀る廟である。管理するのは「久米崇聖会」という団体。中国から琉球に渡ってきた人々の末裔で組織する。創立100年以上の歴史を誇り、祖先の文化や絆を今も守り続ける姿勢はただ感心するばかりである。

 この人々は王国時代、「久米三十六姓」と呼ばれ、1392年から300年にわたって那覇の海岸に近い「久米」地域に移り住んだ。中国と琉球の交流に欠かせない通訳、航海術、造船などの技術を持ち、両国の友好と繁栄を支えたといわれる。

 オリジナルの久米至聖廟は1674年に設けられたが、太平洋戦争で焼失。2013年に、現在の松山公園内に再建されている。同じ敷地内には、久米村の子弟が学ぶ場として琉球王国時代に設立された「明倫堂」も併設され、孔子などにまつわる公開講座などが催される。

 久米といえば、沖縄におけるチャイナタウン。世界各地のチャイナタウンでそうであるように、ここでも何代にもわたって、中国系としての文化や伝統を守りアイデンティーを保つ。日系の場合、二世、三世と現地生まれが多くなるに従って、表だって日系としてのアイデンティティーをアピールすることが少なくなるのと対照的である。







沖縄の風景となった花ブロック

  

 赤瓦を白い漆喰で固めた屋根。青空に映える伝統的な民家であるが、花ブロックが使われたコンクリートの家も、沖縄の風景に溶け込んでいる。

 花ブロックは、四角や丸など幾何学模様の空洞がつくられ、沖縄で戦後生まれた建築資材である。空洞をつくることによって風通しをよくしながら強い日差しを遮る効果があるといわれる。ブロックそのものは戦後、アメリカから導入されたが、亜熱帯の風土や住民の好みに合うように改良されたともいえよう。

 一時期流行したのは、暑さ対策だけでなく、沖縄の風景にも合っていたようだ。戦後、米軍統治の関係もあり、コンクリートの建物が増えたが、花ブロックが加わることによって、直線的で無機質な外観にアクセントをつける。煩わしさを感じさせるほど複雑でなく、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる。大半は同じ模様の繰り返しであり、シンプルな音楽なようでもある。

 安藤忠雄氏が設計し1984年に建てられ、国際通りの象徴的な存在でもあるフェスティバルビル(現在はドンキホーテが入居)にも花ブロックが使われ、外壁には四角い穴が規則的に並ぶ。本土と同じようなコンクリート建築が増え、花ブロックは減った時期もあるが、最近は機能性やデザイン性が見直されて、新しい建物にも使われるようになったという。








那覇市の中心に古墳群

 「国際通り」「沖映通り」といえば、那覇市の中心街であり観光スポットでもある。その南側の路地裏にはいくつもの古い墓が並ぶ。戦前から一帯には多くの墓がつくられ、少なくとも17世紀ごろから墓地だった可能性がある。このあたりは「ナイクブ古墳群」と呼ばれる。

 今でこそ、にぎわいをみせる国際通り周辺も、戦前は人気の少ない野原だったせいもあるが、沖縄の人々にとって墓は不吉な場所や恐れを感じる場所ではないようだ。墓参りの季節にあたる清明(シーミー)には、家族・親戚そろって墓前で飲食をしたり歌や踊りをしたりする風習がある。墓は人目につかない場所ではなく、風光明媚な場所につくるという話も聞く。

 ただし、沖映通り周辺の古い墓は持ち主がわからないものが多く、緑ヶ丘公園などの開発に伴い、次々と解体の対象となっている。








那覇市は「国際」ブームの先駆け? 

 

那覇市・国際通りに面した「てんぶす那覇」前の広場に、国際通りの由来を記した碑が立つ。1948年にこの地に「アーニーパイル国際劇場」がオープンしたことから「国際通り」と呼ばれるようになったという。本土も米軍占領下にあった時期、東京東宝劇場が「アーニーパイル劇場」と名前を変えられた。アーニーパイルはピューリッツァー賞賞を受賞した著名な米国人従軍記者であり、沖縄戦が繰り広げられた伊江島で死亡した。米軍側が求めたか、住民側が配慮したか、しずれにせよ「アーニーパイル」という名前がつくプロセスはおよそ想像がつく。

気になるのが「国際」と名付けた意識である。1980年代以降、日本が世界のトップレベルの先進国という意識が定着したせいだろう、やたらと何にでも「国際」という言葉を入れるようになった。何かハクがつくとか、カッコイイと思えるのだろう。しかし、沖縄で劇場がオープンした当時、まだ沖縄は戦争の傷跡が生々しく残り、その日の食べ物を手当てするにも苦労していた。碑の写真を見て分かるように、建物も掘っ立て小屋に毛が生えて程度。にもかかわらず、「国際」と名付けたのは、気概だけは高く持とうとしたのか、「シャレ」のつもりだったのか。興味深いところである。















浮島・那覇の変遷をみる 

 那覇市の漫湖のほとりには、その周辺の風景が琉球王国や王国以前からどう移り変わってきたか文章や図、写真で語る説明板がある。かつて那覇は「浮島」と呼ばれ、泉崎からみれば沖合の島だった。現在は対岸の小禄とつながりセルラースタジアムがある奥武島も、もともとは完全に島であり、漫湖周辺は緑豊かな島が点々とする美しい風景が広がっていた。今では完全に内陸と化している崇元寺や与儀公園あたりにも船が入っていたという。

 しかし、明治以降は埋め立てが進み、「浮島」は完全につながり辺り一帯は陸地化した。便利さや使いやすさを求めていくと、海や湖は埋められ、山は削られ、地面はコンクリートやアスファルトで固められる。どこも似たような風景となる。しかも、画一化された風景に慣れてしまうと、ずっと以前から同じ風景だったと思い込み、美しかった頃があったことなど頭の中からカケラも残さず消えてしまう。自然の美しさとは不便であり複雑でややこしい。その美しさを守るためには、不便さに耐えながら、劣化する風景や自然の歴史を忘れないことが必要だろう。







天ぷらと那覇の変わりゆく風景






天ぷらといえば少々、気取ったというか高級な料理のようなイメージがあったが、沖縄ではかなりポピュラーが食べ物であり、おやつ代わりに食べられている。ころもが本土のものに比べ厚く、ころも自体に味がついているため、そのまま食べられる。脂分の多い天ぷらは、暑い中で働く人にとって格好のエネルギー補給であり、生のままではいたみが早い沖縄の気候に合った携帯食というところだろうか。

那覇市の壺屋から牧志に抜けるところに、ゆるやかに高くなった「天ぷら坂」と呼ばれる場所がある。沖縄で空襲の始まる直前の194410月に防空壕がつくられ、戦後はこの壕を利用した天ぷら屋が立ち「天ぷら坂」の通称がついた。

当時、天ぷら油には、モービル油(機械潤滑油)が使われ、独特のにおいがたちこめたという。年配の人からは、モービル油の天ぷらを食べて、おなかをこわしたり、翌日パンツが黒くなったりした話を聞いたことがある。しかし、食料不足の時代であり、復興の活気に満ちていた時代であり、天ぷらはご馳走として喜ばれたそうである。

米軍が占領した那覇市の中では、最初に住民に開放された区域が壺屋・牧志だった。壺屋は古くから陶器生産の地域として知られ、戦後復興には皿、茶碗などの食器類や瓦が欠かせないとして住民の帰還が認められた。

壺屋周辺は、ごたごたとした小さな建物が並び、貧しくも活気のあった終戦間もないころの空気が残る。ところが、ここ数年は古い建物は取り壊され、道路工事のために「天ぷら坂」の丘もだいぶ削られた。最近は、見上げるような高層のホテルが建てられ、あたりの雰囲気もだいぶ変わった。










浮島・那覇の名残




 


日本の都市の多くは時間の流れとともに、街並みも大きく変わっているが、那覇市はそういった中でも特に変化が激しい都市の一つではないかと思う。那覇は琉球王国時代、「浮島」と呼ばれ、安里の対岸に浮かぶ島であり、沖縄本島とは「長虹堤」という海中道路で結ばれていた。


埋め立てが進み完全に陸続きになった現在からは、浮島だったころの那覇を想像することは難しい。那覇市の繁華街、国際通りと交わる「浮島通り」という道があるが、これは「浮島ホテル」があったことから名付けられ、浮島としての那覇とは直接関係がない。わずかな名残としては、安里川にかかる「崇元寺橋」近くの説明板が挙げられる。崇元寺橋の場所には、かつては安里橋があり長虹堤の起点となっていた。また、今は崇元寺橋に続くような格好で、「牧志長虹橋」が安里川から分かれた久茂地川に架けられ「長虹」の名前が残されている。









那覇市にたたずむ塩田跡の碑




 那覇市前島一丁目、那覇小学校のすぐそばにある前島中公園の片隅には、「泊塩田之跡」と書かれた小さな碑がひっそり立つ。安里川の河口だったこの一帯には、塩田が広がっていたことを意味する。那覇市の繁華街、国際通りから歩いて10分ほどしかかからない場所である。県庁所在地の中心に近いところに塩田があったとは想像しにくく、しかも公園そのものも小学生がちょっと遊べるくらいの小さな三角形の公園であり、注意しないと碑があることに気づかないだろう。


 前島の製塩業は三百年以上の歴史があるという。近代化される以前の那覇は浮島であり、干潟や海だった区域も多い。徐々に埋め立てが進められ現在のような、ひと続きの街になった。『前島町誌』(平成三年発行)の最初の3分の1以上は、製塩業を中心とした地域の歴史に充てられている。「マエジママース(マースは沖縄の言葉で塩を意味する)」で知られ、塩の神を祀る風習もあったそうである。しかし、1972年5月、本土復帰とともに本土の法律が適用され、伝統的な製塩法を続けられなくなり塩田は廃止された。


 ちなみに1997年、塩の専売制が廃止され、塩の製造法も自由化されると、沖縄をはじめ各地で伝統的な製塩法が復活することになる。




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沖縄におけるペリーの足跡






黒船を使って江戸幕府を開国させた米・東インド艦隊司令官ペリーが琉球王国にも立ち寄っていたことを、沖縄に移り住んでから知った。そもそも、日本史の授業の中で沖縄の歴史について触れることはほとんどなかったと思う。

 県道29号線(那覇北中城線)を首里方面から西へ向かい、国道58号線との交差点を越え海の方へ200メートルほど過ぎると、右手に「泊外人墓地」がある。ここに、1853年5月、ペリーの上陸を記念した碑が設けられている。

来航して10日ほどすると、ペリーは王府の反対を押し切って200人余りの兵隊と軍楽隊を率い、首里城に入り北殿を訪れた。国王との面会や条約締結はとりあえず避けられたものの、開国に向けた幕府との交渉が失敗した場合、米側は琉球を占領する計画だったという。約90年後、米軍が沖縄を占領することになるが…。

 ちなみに、泊の外人墓地はペリーの来航以前から、外国人の墓があり、「ウランダー墓」と呼ばれていた。白い十字架が並ぶ墓はベトナム戦争で戦死した米兵のものだそうである。新しい花が供えられた墓もあり、死者の近親者が沖縄に住んでいる場合もあるらしい。いずれにせよ、存在を誇示するような大きな石碑や構造物はなく、大半がささやかな印を置くだけ。異国の地で永遠の眠りについた人々の侘しさがほのかに漂う。

 あと、沖縄とペリーの関係でいえば、戦後の米軍占領期、那覇市南部の1区域が「ペリー区」と名付けられたことがある。特に、ペリーとゆかりがあったわけではないが、その区域が「山下町」と呼ばれ、旧日本軍の「山下奉文陸軍大将」を思い起こさせるとして、米軍に気をつかい「ペリー」に改名したという。







後復興の原点と王国時代の名残 

那覇市の目抜き通り「国際通り」からアーケード街「平和通り」をずっと奥へ進んむと、壺屋地区の「やちんむん通り」に入る。国際通りや平和通りには観光客向けの店や今風のオシャレな店が並び活気にあふれるが、やちむん通りは一転して車や人の通行が少なく、静かな石畳道に赤瓦の家屋敷が点在し、琉球王国時代の名残を感じさせる風景が続く。

壺屋は王国時代には陶器の生産が盛んであり、戦後那覇の復興もここから始まった。沖縄戦が終わった直後は、那覇市一帯を米軍が占領し住民は立ち入りが禁止されたが、まず生活を始め家を建てるには、茶碗や皿といった陶器類や瓦が必要として、壺屋に初めて住民の入りが認められた。

やちむん通りをしばらく歩くと、現在はアパートになっている左手に「壺屋区役所跡」が見え、横には説明板がある。同区役所は戦後最初に設置された那覇市の行政庁舎。沖縄戦による被害が比較的少なく古い文化財が残るとともに、戦後沖縄がどのように復興していったかの一端を知られる場所でもある。








那覇マチグヮーのレトロな看板 




那覇のマチグヮー(市場)はそれぞれの店が個性的であるが、店の上に掲げられている看板も個性的であり独特の風味を出している。

まず目につくのはコンクリートの壁面に直接書かれた店名や商品名である。手書きだから、書き手の個性や癖が表れ、ほのぼのした雰囲気を醸し出す。歳月のヤスリがかけられペンキが色あせているところもどこか懐かしい。マチグヮー以外でも沖縄では、壁面に直に書く店が多かったのは、取り付け型の看板は台風で吹き飛ばされやすかったという説を聞いたことがあるが、単純に取り付け型の看板より安上がりという気もする。

また、水上店舗などには、なくなった店の看板がそのまま残っていることがある。たいてい店名そのものがレトロな上、看板のデザインも飾り気がない分、温かみがある。市場にもっと活気があったころの勢いをかずかに感じさせる。





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那覇市の中心で川の上に延びる商店街 

 

那覇のマチグヮーの名物の一つが「水上店舗」だろう。地図でみると、市場中央通りの東側に500メートルほどにわたって延びている。水上店舗といえば、海面や湖面の上に櫓をくんで建てた店舗か、商品を積んで売って回る船あたりを思い浮かべ、何となくロマンチックな雰囲気が漂う。

しかし、マチグヮーの水上店舗はぱっと見ただけでは一般の店舗との違いに気づかないだろう。ガーブ川と呼ばれる河川の上にあり、「水上」であることには変わりはないが、川の上に完全に蓋をしてその上に建てられた店舗であるため痕跡をみつけることは難しい。水上店舗が途切れる南の端から、さらに南へ行った農連市場の横で、ガーブ川が暗いコンクリートの穴に吸い込まれところを眺め、その先に水上店舗が続くのを見れば、何となくイメージがわくかもしれない。

ガーブ川が氾濫を繰り返しマチグヮーがたびたび水浸しになったため、1960年代に改修工事を施し蓋をしたそうである。氾濫を抑えると同時に、上に店舗を建てることによって空間の有効利用になったのだろうが、何とも強引な手法であり、米軍統治下の沖縄ならではの工事かもしれない。川の上に橋以外の建物をつくることは沖縄以外ではめったに聞いたことがなく、今の日本では認可が下りないだろう。








那覇市場の名物、ユンタクと猫 


  

首里が琉球王国時代を物語る場であれば、那覇の市場(マチグヮー)が現代沖縄を物語る場であろう。マチグヮーについて気になることをいくつか綴ってみよう。

まず目につくのは、小さな喫茶店や休憩スペースである。コーヒーやお茶などソフトドリンクだけの店もあれば、ビール類などのアルコールも出す店もある。いずれにせよ数人座れば満席である。「ユンタク(「おしゃべり」の意味)」好きの沖縄らしい息抜き方法だろう。

都会の喫茶店のように、1人の時間を楽しむ場所ではない。店内はお互いに手を伸ばせば届く距離にあり、店主とお客、お客どうしが会話に花をさかせる。市場の中にあってオアシスのような憩いの場。間近であわただしく人が通りすぎても気にする気配はなく、小さな店で経営が成り立つのだろうかという心配など無用の雰囲気である。

こんな店に似合うのが市場を根城にした猫たちである。流れゆく雑踏にまったく無頓着に道路脇や床で寝転んだり腰をおろしたりしている。邪魔者がない時は、風通しがよく居心地がよいのか、椅子や棚の上にのぼり置物と化す。








近代日本最初の海外派兵は?

現在、国会では自衛隊の海外派遣をめぐり議論が重ねられているが、明治時代以降の近代日本が最初に軍隊を海外へ送り込んだのは、いつ、どのよう形か知っているだろうか。それは1874(明治7)年、「台湾出兵」である。きっかけとなる事件の痕跡が今も那覇市若狭1丁目に残る。

 沖縄8社の最高位といわれる波上宮の横に、ほとんど注目されずに立つ石碑「台湾遭難事件の犠牲者の墓」。この台湾遭難事件をきっかけに最初の海外派兵が始まるが、その経緯と結果を弊社発刊の『いかに「基地の島」はつくられたか』が次のように解説している。

1871(明治4)年、宮古島の船が那覇から戻る途中、遭難し台湾に流れ着き、乗組員66人のうち54人が地元住民に殺害される事件が起きた。日本政府は陸軍中将の西郷(つぐ)(みち)(西郷隆盛の弟)率いる3600人余りの兵士を送り込み、事件に関係した住民がいる台湾南部を占領した。日本政府は、もともと台湾進出の野望があったのに加え、歴史的に中国との関係も深かった琉球王国(沖縄)が、自国の領土であることを認めさせる機会にしようとしたといわれる。琉球王国は1609年、島津藩の侵攻を受け、以降は同藩の実質的な支配下に置かれていたが、中国に対しても朝貢・冊封(※1)を続けて「臣下の国」の立場にあり、日中どちらにも属する格好を取っていた。

台湾出兵について清国は、日本の行動を「国民保護」のため(※2)の「義挙」(※3)と認め、日本に50万両の賠償金を支払うことで合意、台湾から日本軍が撤退した。さらに、琉球王国の高官や清国の反対を押し切り、1879(明治12)年、日本政府は兵士や警察官を派遣して琉球王国を廃止に追い込み、正式に日本の1つの県として領土に組み込んだ。清国は日本に対する警戒心を強めることになり、確実に戦争の火種がまかれた。

台湾出兵の20年後、1894(明治27)年、琉球王国と並び長く中国の朝貢・冊封国となっていた朝鮮の支配権をめぐり日清戦争が勃発した(このときの海軍大臣が台湾出兵を指揮した西郷従道)。清国の敗戦によってその弱体ぶりが鮮明になると、欧米諸国の東アジア進出が一段と加速化し、10年後の1904(明治37)年には、日本は朝鮮や中国東北部の権益をめぐってロシアと対立、日露戦争へ突入した。日本はかろうじて勝利し朝鮮や中国東北部からロシアを排除したものの、アジア地域の利権に野心を燃やす他の欧米諸国との緊張を高め、新たな火種をまくことになる。

1 朝貢・冊封

中国皇帝に貢物をして君臣関係を結ぶこと。臣下の国になるものの、中国は直接統治せず自治が認められるため、緩やかな従属関係にある。臣下の国の支配者は中国皇帝からその国を統治する地位を与えられ権力の安定につながるほか、中国と貿易する権利も与えられる

2 国民保護のため

日本政府は「自国民の保護」を台湾出兵の理由にしたが、出兵の6年後にあたる1880(明治13)年、中国国内の通商権(日本商人が中国国内で欧米諸国並みの商業活動ができる権利)と引き換えに宮古・八重山諸島を中国に分割する案を提案している。最終的には調印に至らなかったものの、保護すべき「自国民」も都合によっては切り捨てる姿勢が浮き彫りになっている

3 義挙

正義のための行動











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沖縄本島南部

中城湾を臨む坂道に歴史の名残

南城市といえば、琉球王国時代の最高の聖地ともいわれる斎場御嶽が有名だが、これ以外にも歴史を感じさせる場所がある。その一つが小谷(おこく)集落である。市の北西部、中城湾から山に向かって上っていく途中に家々が並ぶ。「上の井」「中の井」「下の井」という三つの井戸があり、一部、石畳の道も残る。素朴な積み方や石のすり減り方に、ゆったりとした時間の流れの跡をみる。中国から伝わった土地信仰「土帝君」を祀る祠もあり、地域の人々の信仰を集める。豊かな森に囲まれて多様な植物を観察できる場にもなっていて、集落の中の植物には、その名前を書いた札がかけられ植物名を学べる。かつては竹細工が盛んで知られていたが、現在では大分少なくなっている。








八重瀬町の琉球古民家

 

知人の案内で先日、八重瀬町大頓の「やぎや」で昼食をとった。建物は、文化庁の登録有形文化財に指定されている琉球古民家である。門の前に立つ重厚なひんぷんを過ぎると、庭を囲んでコの字型に古い赤瓦の母屋などの建物が並ぶ。建物や庭は一般の屋敷に比べ、特に大きいとか豪華とかという印象は受けないが、食事を終えて知人らとだらだらとくつろげる。急き立てられることのない時間が流れ、独特のゆったりとした雰囲気が漂う。沖縄に10年間住みながら初めて来たが、ここを訪れる人たちはレンタカーの観光客が多いようだ。周りは一般民家や畑の多い地域であり、ふらり歩くうちにたまたま入る店ではない。ネットなどであらかじめ調べておいたのだろう。







巨岩と亜熱帯樹が絡み合う斎場御嶽


 

数年ぶりに南城市の斎場御嶽(セーファウタキ)を訪れた。数年前は沖縄に移り住んでまもない時期であり、「これが亜熱帯のジャングルか」と思ったくらいだった。多少なりとも琉球王国の歴史を学んだ目で改めて見渡すと、綿密に計算して王国最高の聖地に選んだ意図を推し量れる。

まず注目するのは、遥か見上げるような巨岩が随所に点在する地形だろう。巨岩そのものが、人間の及ばない巨大な力の存在を感じさせる。それがいくつも集まれば、この地から歴史が始まったと信じたくなるはず。しかも、巨岩を抱え込むようにツタや根をはわせる草木の姿には、生命力が満ちてくるような思いがわくだろう。「神の島」と呼ばれてきた久高島を真正面に眺められることによっても神秘性が増す。王国神女の最高位「聞得大君」の就任式を始め、重要な宗教的儀式が催されてきたが、緑深いこの森を女性たちが真っ白な着物と鉢巻きをつけ歩く光景には、たとえ信仰心がなくても荘厳さを感じたことだろう。

それにしても、斎場御嶽そのものは変わらなくても、周囲の風景は別世界となっている。以前は未舗装の小さな駐車場があったくらいで他に何もなかったが、土産物屋や食堂、観光案内所など関連施設が格段に整備されている。訪れる人もだいぶ多くなった。御嶽内でほかの見学者をあまり目にすることはなかったが、今はカップルや家族連れ、団体などと頻繁にすれ違う。

さらに、入場無料だったのが入場料をとるようになり、すぐ横まで車で乗り付けられたのが、離れた駐車場に車をとめて少々歩かなければならなくなった。入場者が増えることによって「聖地」が荒らされているという批判も聞く。入場者の制限も話題になるが、もともと男子禁制の土地だったことから、男性を入場させないという案も浮上しているようだ。







斎場御嶽にたてこもった敗残兵たち

南城市の斎場御嶽(セーファーウタキ)琉球王国時代聖地であり、沖縄パワスポットもあが、7沖縄戦が終結した(旧日本軍の組織的な抵抗が終わった)70年前の6月23日以降も、旧日本軍の兵士たちが立てこもっていた場所でもある。兵士たちは投降を拒むだけでなく、捕虜となった沖縄住民を攻撃した。弊社の『沖縄戦の「狂気」をたどる』が次のように説明する。

知念村(南城市)の斎場御嶽の一角にたてこもった敗残兵8人が久手堅の収容所を襲撃したこともあった。

「床についてまもなく、敗残兵グループがやってきて大声でわめいた。『貴様らは戦争も終わっていないのに捕虜になっているから生かしておけん! しかも捕虜民の区長になっているから生かしておけん! すぐ出てこい!』と何度も怒鳴った。

孫一区長は、家にいたら捕らえられて殺されると思い、いきなり家を飛び出し、石垣を飛び越えて向かいの小川に飛び込んで逃げた。そのとき、敗残兵のひとりが手榴弾を投げつけたが、投げる方向を誤ったので、孫一区長はひたいに負傷はしたものの、大事にはいたらず無事逃げのびた。(『虐殺の島-皇軍と臣民の末路』P59

敗残兵による収容所襲撃については、知念村(現在の南城市)出身の別の女性も証言している。

 「久手堅収容所ができて約1カ月後の7月19日、月夜の晩に斎場御嶽の近くのナーワンダー(現南城市の古代祭祀遺跡)の岩上に潜伏していた日本軍が、久手堅収容所の事務所倉庫になっていた私たちの家を襲った。拳銃の炸裂する音で目がさめた。その時悲鳴と弾の音が交錯し、誰かがやられたらしいと思った。弾が四方八方から飛んでくる」(『知念村史』P196

 この女性は戸外に逃げようとした瞬間、左腕を撃たれ骨折。夫も右足を撃たれて骨折した。伯母は胸に弾丸を受けて倒れた。さらに手榴弾が投げ込まれた。

 「その時荒々しい靴音がして7、8人の兵隊が、物凄い形相で入ってきた。日本刀を抜いて今にも切りつけんばかりに興奮し、顔を見ることもできなかった。全身から血が引くような感じがして目を閉じた。日本刀が冷たく首筋にふれるたびに、今はこれまでと観念し涙が流れた。あたりに殺気が流れ、心臓の鼓動が聞こえる恐怖の一瞬だった。『捕虜になってそれでも日本国民か』とどなりちらす声が耳に響いてくる」(『知念村史』P197

 この日本兵は、避難民を日本刀の先でこづくなどさんざん脅迫した後、夜明け前に、倉庫から食料の袋を担ぎ出し引き上げたという








南風原陸軍病院壕の惨状

沖縄戦について学ぼうとすれば、本を読んだり関係者の話を聞いたりすることになるが、想像力を膨らませ追体験できる場所もある。その一つが壕である。人工的につくられたものもあれば、自然の洞窟を利用したものもある。戦後70年が経過し、大半の壕は崩落の危険から入ることができながいが、見学が可能な壕もある。以前の記事で紹介した糸数壕のほか、南風原陸軍病院壕(沖縄陸軍病院南風原壕)である(問い合わせ先:南風原文化センター0988897399)。負傷兵たちの悲惨な運命の舞台となった。

沖縄戦で追いつめられた旧日本軍は、兵士を「消耗品」として戦場に投入するとともに、「使用不能」とみなせば「処理」した。撤退の際に足手まといになったり、米軍の捕虜になって軍の情報が漏れたりするのを防ごうとしたようだ。弊社の『沖縄戦の「狂気」をたどる』は、南風原陸軍病院壕で起きたその惨状を次のように説明している。

「南風原町に設けられた陸軍病院に入院していた兵士(当時20歳)による証言である。

 「軍医の命令で、敵が津嘉山まできているので、はってでも出ることのできない人は壕の中で一緒に死ねという命令があった。自分はそれを聞いて、びっくりして、はち切れるほどに腫れた足をひきずって壕から出ていった」(『東風平町史 戦争体験記』)

同病院第1外科に入っていた兵士(当時22歳)は、薬殺されそうだったところから命からがら逃げ出したという。

 「歩ける兵隊を全部連れ出した後、3日ほどは何も水一滴もくれなかったわけですよ。それでちょうど5月28日ぐらいになってから、今日はミルクやるから入れ物出せと言うのでね、衛生兵でしょう、恐らくね。それで飯ごうにミルクを配って歩いて、壕の入り口の方から飲ませてきて、そしたら何かえらい苦しい、こたえて騒いでいる(中略)ミルクを飲んだ途端、これはえらいことや、これはあかんということで水筒に水は残っていましたから、それを飲んで指を突っ込んで吐きました。こんな所におったら殺されるということで、もうポッと起きた。逃げようとした途端に今まで歩けなかった奴がいっぺんに走れましたから。それで逃げるやつは、後ろからピストルで撃たれましたけれども、運よく当たらんで逃げられました。北海道の兵隊は、壕から出て200300メートル逃げたところで、今度は艦砲の直撃弾をくらってふっ飛んでしまいました。結局は、あそこで最後に残ったのは私1人だけらしいですね」(『平和への証言』P56

同病院第3外科に勤務していた軍医見習士官(大正9九年生まれ)が次のように証言している。

 「敗戦の戦場において、敵中に置いていく重傷患者を安楽死させるのが、良いのか悪いのか、その当時としては判断が難しく、戦争という巨大罪悪によって引き起こされた人間の悲劇としか言いようがない。

しかし、陸軍病院が大量の青酸カリを前々から用意していたことは、軍医部等の上層部の命令で、最悪の場合をかねてから考慮してのことであろうが、やはり個々の患者の苦痛を少なくするとうよりも、軍の体面や秘密の保持を考え、玉砕精神を励ますのが目的だったと言っていいだろう。さらに残念なことは、生還できる可能性のある戦傷者にも無差別に青酸カリを与え服用させたことである。(中略)

(第1外科で)総計約800名の患者であったが、歩ける患者を除くと約四百名位の数の重傷者がいたと推測されるし、その患者が青酸カリによる自決に追い込まれたと思われる」(『閃光の中で ―沖縄陸軍病院の証言』P195196)」









沖縄戦で使われた糸数壕とスパイ容疑 

沖縄戦で何が起きたかを語る時、戦時中に使われた壕に触れずにはいられない。米軍に追い詰められた日本軍の兵士と沖縄住民が、攻撃を逃れるために壕の中で混在し、悲劇的な事件が起きたからだ。壕の大半は戦後放置されていたため、崩落の危険があり中に入ることはできないが、南城市玉城字糸数の糸数アブチラガマ(糸数壕)は数少ない整備されている壕。長さ270メートルにも及ぶ自然の洞窟(沖縄の言葉で自然の洞窟を「ガマ」と呼ぶ)を利用していて、入場料を払えば中を見学できる(詳しくは南部観光総合案内センター098-852-6608へ。写真は糸数壕の説明板)。弊社の『沖縄戦の「狂気」をたどる』では、この糸数壕で起きたことを次のように説明している。

「「生きて虜囚の辱めを受けず」。(日本軍は)兵士はもちろん、一般住民に対しても、捕虜になることを禁じた。兵士が必至になって戦っている一方で、住民が米軍の捕虜になるようでは戦意の低下を招きかねない。「いざとなれば投降して捕虜になればいい」という兵士が出てくる。しかも、捕虜になって敵の尋問を受けるうちに日本軍の情報がもれてしまう。

こう考えていた兵士にとって、投降を勧めることは味方を不利に追い込むスパイ行為であり、徹底的に断罪されるべき対象だった。玉城村(現在の南城市)にあるアブチラガマ(糸数壕)にたてこもり住民を監視していた日本兵たちは、その典型的な例だった。石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』(P127)によれば、投降を勧めにきた住民と日本兵の間に次のようなやりとりがあったという。

「実は、日本軍が勝ったというのはウソで、とっくに沖縄の日本軍は敗北しています。みんな米軍の捕虜になって、住民は収容所に保護され、食糧も支給されており、殺されることなく平和に暮らしています。自分たちは仲村渠(なかんだかり)部落の収容所に収容されているが、囲いもなく自由に出入りできるし、みんなもここから出ましょう」

しかし、日本兵は聞く耳を持たなかった。

「貴様らはスパイだっ! たたっ斬る! と叫んで、抜刀して上妻伍長が私に迫ってきたのです。私は〈おまえたちに殺されるよりは自分で死ぬ〉と叫んで、壕のいちばん高いところまで逃げて、その断崖から下に飛び込んだのです」

捕虜になる日本人を「スパイ」とみなす考えは兵士だけでなく一般住民の間にも広まっていた。アメリカ軍は捕虜にした日本人に対して、頑強に壕にたてこもり続けるほかの日本人を説得させようとしたが、こうした住民もほかの住民が「スパイ」呼ばわりすることがあった。

読谷村出身の男性(昭和4年生まれ)はこう証言する。

 「一緒にいたアメリカ兵は私を、住民を壕から出す係にしようと思ったのか、また次の壕へ行き、私に投降を呼びかける役目をさせた。

次の壕では、『英幸はスパイをしている、もう大変だ』と言って、反対側の出口から全員逃げ出してしまった。そうした人たちは、山原へ行ってよけい大変な目にあったと思う。戦後になって、『あなたが呼びかけてくれて、お陰で命が助かったよ』とお礼に来る人もあれば、『スパイ』だと陰口をたたく人もいた」(『読谷村史 第5巻資料編4 戦時記録 下巻』P502)」





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沖縄本島中部

天間の過去と今がみえる嘉数高台

宜野湾市の南端に近い嘉数高台公園は住宅街の中にあり、公園として珍しい施設があるわけではないが、近年、修学旅行から政府関係の視察まで多くの人が訪れる。標高90メートルの高台に設けられた展望台からは、名護市辺野古への移設をめぐり、たびたび全国ニュースに取り上げられる米軍普天間基地が見渡せるからだ。新型輸送機オスプレイをはじめ、軍用ヘリ、空中給油機、大型輸送機など見慣れない航空機が離着陸を繰り返し、日米安保が今も着実に動いていることを実感できる。

この高台公園では、日本の安全保障の過去にも触れられる。太平洋戦争末期にあたる1945年4月、沖縄本島中部に上陸した米軍主力部隊と日本軍沖縄守備隊が初めて激突。嘉数高台は、首里に置かれた日本軍司令部の第一防衛線の中心となった。兵力や装備で圧倒的に不利な日本軍がとった戦略は持久戦だった。縦横にトンネルを張り巡らせ、地下にもぐって徹底抗戦を図った。本土決戦の準備を進めるため、米軍をなるべく消耗させ、本土進攻をおくらせることが狙いだった。

高台の中腹には今も地下壕への入り口がみられる。頂上付近には当時のトーチカが残るが、厚さ75センチもあるコンクリートの鉄筋がむき出しになるほど破壊され、米軍攻撃の激しさを物語る。日本軍は2週間余り、第一防衛線に踏みとどまったが、代償も大きかった。嘉数地区の700人近い住民の半数以上が亡くなった。兵士も急造爆雷を背負って米軍戦車への体当たり攻撃を仕掛けるなど消耗も激しく、本島中部の戦闘で日本軍守備隊10万人余りのうち6割が失われた。嘉数高台付近で戦った日本軍には京都出身者が多かったことから、頂上付近には慰霊碑「京都の塔」が建てられている。


浦添グスク跡に首里の原型を見る

 首里城には年間200万人を超える観光客が押し寄せるが、お隣の浦添市にそびえる浦添グスク跡を訪れる人はまばらである。しかし、首里城以前の中山(琉球)国王城であり、巨大な石垣や有力者の屋敷、集落などがつくられ、王都首里の原型があったといわれる。

グスク北側の崖に復元された王国初期の陵墓「浦添ようどれ」には荘厳な権力の名残を感じる。グスク入り口から北側に少し下りた後、緩やかな曲線を描く石垣と、崩れ落ちてきそうな崖に挟まれた狭い道を歩いて、石のアーチ門をくぐり、石垣に囲まれた小さな広場に入ると、崖をくりぬき漆喰で固めた二つの扉が目に入る。あの世に続く入り口を思わせる。

この地は首里に王都が移った後は荒廃したが、16世紀には浦添地区を治める支配者の居城になる。しかし、1609年に薩摩藩が侵攻した際には焼き払われ、さらに沖縄戦では日米両軍が死闘を繰り広げる激戦地となり、城壁の大半が破壊された。現在、城壁の復元はほんの一部にとどまり、グスク本体にはあまり往事を偲ばせるものは残されていない。ただ、眼下には那覇市から宜野湾市までの一帯が広がり、この光景を眺めていると、権力の興亡が繰り返されたことも当然と思えてくる。

  






勝連城からの絶景

  

 うるま市の勝連城は、ゆっくりとカーブを描きながら競り上がるように石垣が積み重なる。下から見上げると、空と地を繋ぐ巨大な塔のような雰囲気が漂う。首里城、中城城、座喜味城など他の名だたる城は設計されたデザインが前面に出るが、勝連半島のゴツゴツと突き出た背骨の地形に石垣の鎧をかぶせている。

最も高い一の郭まで上ってみると、築城した者たちの意気込みが伝わる。太平洋沖に顔を向ければ、右手に中城湾、左手に金武湾が広がり、正面には勝連半島が伸び、その先には平安座島や浜比嘉島などが浮かぶ。陸地と海が複雑に入り組んだ風景を見下ろしていると、空飛ぶ鳥になった気分であり、神の視点に近づく。





荒波打ち寄せる岬の灯台 

 

残波岬の周りに広がる海の表情がなかなか興味深い。那覇方面から残波岬を目指して海沿いに北上すると、左手、東方向には砂浜が続き、穏やかな海が広がる。ところが残波岬を回ると海の表情は一変。西方向には切り立った崖が延び、北方向から荒々しく波が打ち寄せて来る。この残波岬に立つ灯台(写真左)は、「慎ましやかな離島の灯台」で紹介した離島に比べて大きく、周囲もごつごつした岩場が広がり寂寞感を醸し出す。テッポウユリが似合う風景である(写真中央)。波風に耐え地の果てにじっと立つという灯台のイメージに近い。写真右は喜屋武岬近くに立つ灯台。残波岬と同じく比較的大きく、周囲は切り立った崖が続く。





海中道路の複雑な風景と歴史 

晴れた日に、勝連半島から沖合に向かってエメラルドグリーンの海の上を真っ直ぐに延びる海中道路をドライブすると気持よい。沖合には浜比嘉島や平安座島がどっしりと構え、沖縄本島側には金武湾が海全体を抱え込むようにカーブを描く地形は別世界の趣がある。

今では格好のドライブコースになっているが、沖縄が本土復帰する前後の時期、CTS(石油備蓄基地)建設をめぐり賛成派と反対派の対立の場になったことがある。賛成派が海中道路入り口に座り込み、「昔のように小舟で通い離島苦を味わってみろ」と反対派の人々を追い返すという事件が起きた。海中道路は、CTS建設に伴い石油精製会社が造成し、地元の与那城村(現在のうるま市)に寄贈された。開通する以前は、平安座島や宮城島から勝連半島側へは、干潮時にはトラックで渡り、満潮時には小舟で渡っていたが、渡し船の遭難事故も発生した。











浜比嘉島のエイサーと路地裏

うるま市の勝連半島沖に浮かぶ浜比嘉島は、遠浅の海に平安座島など島々が浮かぶ風景が広がり、島内を回ると沖縄の古い家並みや石垣が残り、天気のよい日にはゆったりと訪れたい場所である。旧盆には、各家々を回る昔ながらのエイサーが繰り広げられる土地としても知られる。弊社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』では、次のように紹介している。

「水平線の上に並ぶ積乱雲から夕日の余韻が消えるころ、浜に打ち寄せる小波の音が耳につき始めた。赤瓦の家々の仏壇には明かりがともされ、島の静寂があたりを支配しつつも、張りのある明るい声が時々もれてきた。

旧盆の初日にあたる旧暦七月十三日にご先祖様を家に迎え入れ、最終日にあたる七月十五日、ご先祖様を送り出す。この十五日、勝連半島の北東の沖合に浮かぶ浜比嘉島の比嘉集落を訪れた。

家々が寄り添う狭い路地裏を歩くと、各家庭の生活がほとんどお丸見えである。都市部とは違い、カーテンやブラインドで室内を隠す家はない。家族が集まった笑顔、線香の香り、仏壇とその横にともる明かり。風通しのよい家にご先祖様が帰り、またあの世に戻っていくのだろう。

集落の一番西にある赤瓦と白壁の家が、満月がこれから勢いをつけて中空を目指そうとした午後8時すぎ急に騒がしくなった。白の上下の衣装に紫や金、青緑の長い布を頭や肩から垂らした男たちの一団が、中庭になだれ込んできた。腹の底から出される「エイサー! エイサー!」の掛け声、打ち鳴らされる大太鼓、小太鼓。どこか物悲しく、ゆったりとした音楽が流れる本土のお盆に比べると、にぎやかで勇ましい。沖縄のご先祖様はこうした雰囲気が好きなのだろう。じっと嬉しそうな顔で踊りをみつめるおばあさんの表情が印象的だった」








沖縄本島北部

国頭村のリゾート地区・鏡地 

 

  

 やんばるの山々が海近くまで迫る国道58号を大宜味村から北上していくと、沖縄本島の北端が近い最果て感が徐々に濃くなる風景。ところが、国頭村に入ってしばらくしてから国道58号を海側に逸れると、四方がまったく平らな土地に出る。それだけでも意外だが、典型的な沖縄の民家が肩を寄せ合う集落を抜けると、コテージ風の洒落た建物が並び、あたりの空気が変わる。リゾートホテルらしい。さらに進むと、整備された公園や運動場が続き、海辺に出ると緩やかに弧を描くビーチが延び、ぽつぽつと海水浴客の姿がみえる。

比地川の河口周辺に広がる、この鏡地地区は明治時代に入り、他地域からの移住者が開拓した。鏡地港は波靜かで深く、那覇や与論島、沖永良部島などとの間を行き来する、やんばる船の主要な停泊地だった。あたり一帯には「奥間ターブク」と呼ばれた水田であり、河口付近はマングローブ林が広がっていた。モーイ(イバラノリ)がよく採れ、近くに塩田もあり戦前まで区民の貴重な収入源だったという。塩田跡地はシマナー公園となっているが、シマナーとは塩田の意味である。現在とは異なり、船の出入りや海辺周辺で働く人の姿で活気があったことが想像される。

戦後は、鏡地の北隣、赤丸崎一帯が米軍将校用保養地として接収されたことが、この地域の運命を左右したのかもしれない。隣接する南側にはVOAVoice Of America)という共産圏向けの宣伝工作施設が建設され、多くの鉄塔が立っていた。VOAは沖縄の本土復帰後、返還されリゾートホテルとなっている。

それにしても、米軍はほかの施設から離れたこの地に保養地をつくりたかったのだろうか。基地の喧騒からまったく隔絶されたような土地でゆっくりしたいという気持ちがあったのだろうか。保養地内には、軽飛行機用ながら、やんばる唯一の滑走路まで建設された。

 






豊かな実りと奥間集落


  

国頭村を走る国道58号から一本横道に入り奥間集落の中心に向かうと、まず目につくのはガジュマルの大木である。18世紀前半に植えられ400年近く経っているといわれ、歴史を感じさせる。

この地域は「奥間ターブク」と呼ばれ、沖縄でもまとまった水田があったことで知られる。山の多い国頭村にあって一帯になだらかな平地が広がり、ガジュマルの大木の横にある共同井戸「イジミ川」をはじめ随所に井戸や小川が流れ水に恵まれている。かつては、二期作が行われ、水田の川ではたくさんのフナが釣れたというのも納得できる。現在は換金作物のサトウキビに取って代わられている。

小学校の裏手のところから整備された石段をのぼると、小高い丘の中腹にちょっとした広場があり、土帝君を治めた祠が立つ。広場からは水田が広がっていただろう平地が見渡せ、土帝君に実り多き土地を見守ってもらいたいという願いが込められたのかもしれない。一角には「奥間土帝君の大キリ」と呼ばれ県の名木100選に選ばれたリュウキュウハリギリがそびえる。樹高14メートル、幹まわりは2.2メートルあり、地表2.5メートルのところから枝が空を支えるように四方に分れている。

土帝君は長いあごひげをたくわえ仙人ような小さな像で、1700年代の初めにもたらされたといわれる。農業の神や集落の守護神として親しまれ土帝君の誕生日にあたる旧暦2月2日には土帝君祭が催される。国頭村奥間では、豚の頭、鶏、カニなどが供えられ、臼太鼓(ウシレーク)を披露。「ミミチングリー(耳摘ん御礼)」と呼ばれる礼拝をする。両手で両耳をつかんでお辞儀をして左に回るという動作を7回繰り返す。






味わい深い与那の集落

  

沖縄の地方集落もコンクリートの家が増え現代風のたたずまいに変わっているが、国頭村与那は古き沖縄の風情を比較的残す集落といえよう。三方を山に囲まれ、特に那覇方面や村の中心部と集落を結ぶ南方向の交通路は、現在の新与那トンネルが開通するまで、山が海の近くまでせり出す難所として知られ、長い間孤島に近い状態だったことと関係するのかもしれない。

与那の集落は、緑深いやんばるの山々を縫って流れる与那川が海に出る直前に開けた小さな平地にあり、高台から眺めると、瓦屋根の民家が「肩を寄せ合う」という形容がぴったりくる。ところどころに、苔やツタ類に覆われた石製の共同井戸や、竹柵やフクギで囲まれた路地がある。共同井戸では地域の人々が集まり、飲み水を汲み洗濯をしたり野菜を洗ったりしていたそうである。長い年月、自然に寄り添い暮してきた人々の息遣いを感じる集落である。








神秘の空気漂う塩屋湾 

  

大宜味村の塩屋湾は不思議な地形である。湾の入り口は狭いが、湾の内側はぐっと広がっている。湾を取り囲む山々は幾重にも重なりながら水面近くまで迫る。緑の山々と静かな青い水面が複雑な入り組んだ光景は神々しささえ感じ、この地で「海神祭」が古い形を残しながら伝えられているのも頷ける。

 海神祭で、山の中腹のアサギで祈りを奉げる神女たちの後ろに見えた塩屋湾の風景には思わず「美しい」の言葉がもれる。御願バーリーで、3隻の船が湾の奥からゆっくりと近づく姿には神の到来を感じる。








下から見上げた瀬底大橋 

同じ本部半島周辺にかかる橋でも、以前に紹介した古宇利大橋とは異なり、瀬底大橋は橋脚がかなり高い。長さは760メートルほど、最高点は25メートルほどあり、かなり見晴しがよい。ただ、本部半島側からは長く急な上りが続くため、少々恐怖心を感じて見晴しを楽しむ余裕がないかもしれない。

橋脚が高い橋は、下から見上げても面白い。上を走っていると道路の延長にしか感じられないが、下から見上げると、いかにコンクリートや鉄骨をくみ上げて重量のある構造物を支えているか実感できる。橋の内臓をのぞく気分である。写真は、本部港から伊江島へ向かうフェリーが瀬底大橋の下を通過した時に撮影したもの。
























海上を走る感覚の古宇利大橋 



今帰仁村の古宇利大橋はユニークな橋である。長さが2キロ近くあり、しかも沖縄本島と離島を結ぶのではなく、屋我地島と古宇利島という二つの離島を結んでいる(屋我地島と本島の間には橋が架かり、本島から古宇利島に車で行くことはできる)。さらに、これだけの長さがありながら橋脚が低いため、車で走ると海上を駆け抜ける感覚に近い。コバルトブルーの海の中、真っ直ぐに伸びる橋の先に、平たい餅のような古宇利島が横たわる光景は、シンプルな直線と鮮やかな色で構成された一幅の絵画を眺めているような錯覚に陥る。米国フロリダ半島南端のキーウエストに延びる橋を彷彿とさせる。








奥行きを感じさせる羽地内海 

沖縄本島は、中央部に立てば、東シナ海と太平洋の両方が見られるほど小さな島であるが、広大さを感じさせる風景に出合えることもある。本部半島の東側の付け根と屋我地島に囲まれた羽地内海もその一つだろう。本部半島と屋我地島の海岸線が複雑に入り組む光景が続くため、視界の外でも同じ光景が広がるような錯覚に陥り壮大さを感じるのだろう。写真は2010年に完成したワルミ大橋から撮影したが、瀬戸内海にいるような気分である。



























離島や本島北部に残るフクギと石垣の風景



(粟国島)                        (国頭村奥)                      (本部町備瀬)

フクギと石垣の風景は本部町備瀬が有名だか、沖縄本島北部や離島の集落でも所々みかけることができる。心やすらぐ風景である。

家を囲むフクギはすっと伸びた幹に濃い緑をまとう。夏には照りつける日差しを遮って涼をもたらし、冬の寒風や台風などの強い雨風から家を守る。成長すれば家財をつくる材料にもなる。人の暮らしに寄り添い続ける樹木である。そんな家々の中では、ひと気を失い庭には雑草がはびこり石垣が苔むす民家も、自然の大きな流れに込み込まれ朽ち果てる美しさを放つ。







買い物弱者を支える共同売店




 

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20日、恩納村の恩納共同売店と山田共同売店を訪れた。沖縄国際大学で行われているソーシャルビジネス研究会のフィールドワークの一環である。

共同売店とは、地域住民が資金を出し合って運営する商店。自分たちが日常必要なものは、自分たちがお金と労力を出し合って調達しようということだ。集落内や近隣で買い物が難しい過疎地域に多い。地域の結束力が強い奄美・沖縄地域独特の経営スタイルともいえる。

日用品を手軽に手に入れられるだけでなく、住民が顔を合わせて情報交換をしたり、お年寄りや子供の面倒を見たりする場でもあった。地域によっては、精米作業や酒づくり、特産品づくりから、銭湯経営や奨学金の給付、住民への融資まで手掛けたところもあり、住民の自主的な交流や助け合いの中心的な役割を担ってきた。

戦前や戦後まもない時期は、集落に若い世代が多く人口も増える一方、交通手段が限られていたため、ほとんどの住民が共同売店を利用し活気もあった。しかし、道路網が整備されマイカーが普及すると、大きな街にある大型スーパーなどに買い物に行く住民が増えるとともに、集落の過疎化が進み、共同売店を支える人口が減っていく。リゾート観光地として知られ比較的人口が安定している恩納村の共同売店でも、近年は赤字経営が続いている。

これが資本主義の理論で動く通常の店舗ならば撤退の道しかない。でも、共同売店の場合、これがなくなれば、自分で車を運転できないお年寄りをはじめ相当数の住民が不自由を来すことが目に見えている。どれほど赤字が続こうと経営を続ける覚悟がある。見返りがなくても「自分たちの店」として運営に協力する。

とはいっても、少しでも赤字を減らして地域の負担を減らそうと策を練っている。この日訪れた両売店の責任者とも、地域ならではの特産品をつくって観光客を呼び込みたいと語っていた。もっと、共同売店について知りたい人は、共同売店ファンクラブフェイスブックページ(http://w1.nirai.ne.jp/kyodobaiten/)などをのぞいてほしい。




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沖縄の離島

闇夜に浮かぶフクギ並木

沖縄では、すっと伸びた幹に青々とした葉をつけるフクギは、家々の周りに植えられ、風雨や強い日差しを防ぐとともに、各種の資材として利用されてきた。そうしたフクギに囲まれた集落は数少なくなっているが、その数少ない一つが渡名喜島である。集落の中を貫く道路の大半はフクギ並木になっていて、場所によってはトンネルと呼べるほど枝がよく茂り、何か所かには200年を超えるといわれる古いフクギも残る。道は毎日掃き清められた砂地であり、夜間の照明も上から照らす街灯ではなく、足元からほんのりフクギ並木を浮かびあがらせるフットライト。柔らかな光に染められ、すべての境界線が曖昧に微かになり幻想的な雰囲気につつまれる。







高台から眺めた渡名喜島

 那覇から西方へフェリーで2時間余りの海上に浮かぶ渡名喜島を訪れた。三日月の形をした周囲12.5キロほどの小島である。この島の全体の雰囲気をつかむには、北部にある西森園地展望台に向かって散策道を歩くことが一番と思う。展望台まで上りきる手前、坂の途中にある木のベンチあたりで振り返ってもらいたい。

石灰岩がところどころ露出する険しい南部の山々がまず目に飛び込んでくる。山の表面をよくみると、山頂付近まで水平の筋が入っていて、以前は段々畑が随所につくられていたことが分かる。ふもとに視線を転じると、比較的なだらかな北部の丘陵地帯との間にはさまれた狭い平坦地には、こんもりとしたフクギの森が広がり、木々の間から民家の屋根が頭を出す。

人を寄せつけない荒々しさと、フクギによって包まれる集落ののどかさが同居。大小二つの山をつなぎあわせ、その間を平らにしたような、現実感を失うほど単純な島の地形と相まって、不思議な景観を形づくっている。







沖縄で一番高い城跡は? 久米島の宇江城城跡とは?

沖縄のナンバーワンは、一番大きな沖縄本島にあるとは限らない。たとえば、一番長い川は西表島の浦内川であり、一番高い山は石垣島の於茂登岳である。一番高いところにある城跡は、久米島の宇江城城跡。300メートを超えるところにある。伝えられるところによれば、当時の久米島の支配者が、神女が受けた神のお告げに従って建てたという。島内一帯はもちろんのこと、あたりの海まで見渡せ眺望は素晴らしい。

勝手な想像であるが、高いところに建設することは権力の誇示になる。資材を運び建設する場所が高くなるほど、費やす労力や資金も膨らむ。重機のない時代に大きな建築物をつくることはそれだけで驚きの対象であり、島内の多くの場所から見えることによって、住民は日々の暮らしで意識し敬うようになるだろう。久米島は島としては大きくないが、沖縄本島と中国を結ぶ中継地のような場所にあり、地理的な重要性があったのだろう。だから、沖縄でも最も高い場所に城を建設し力を見せつけるような行動が必要だった。そんな気がする。ちなみに首里城の標高は120130メートルである。





2つの具志川城跡の物語


(久米島の具志川城)                  (糸満市の具志川城)

荒波が打ち寄せる久米島の断崖に面して具志川城が建てられている。琉球王国時代の資料によれば、王国の軍勢に攻められた当時の久米島の支配者は具志川城に立てこもり抵抗したものの、最終的には滅ぼされたという。別の資料によれば、それ以前に具志川城の城主だった者が久米島を追われて、糸満市喜屋武に同名の具志川城を建設したそうである。

糸満市の具志川城も、三方を海に囲まれた突端にあり、久米島と同じような立地にある。海に近い城は見慣れないせいか、どこか違和感を覚える。平和の象徴である海に、権力や武力の象徴である城は似つかわしくない面もあるだろうが、城主の心の奥底に流れる感情を照らし出しているような気もする。底なしの孤独である。開放的で明るい雰囲気の漂う海も、振り返って見れば陸地の果てであり行き詰まりであり、これ以上行き場のないことを表している。





魚の群れを眺める阿嘉島の北浜ビーチ

 

サンゴ礁が美しいと聞いて1021日、阿嘉島の北浜ビーチでシュノーケリングをしてみた。波打ち際に近いところは、ほとんど残骸となったサンゴが一面に広がり、その中にぽつりぽつりと生きたサンゴが点在するという感じ。少し沖合に行って、ようやくまとまったサンゴ礁があり、魚の群れが行き来していた。中にはこちらを何かと勘違いしたのか、逃げるどころか向こうから近寄ってきて目の前をぐるぐる回る群もあった。





慎ましやかな離島の灯台


(石垣島の灯台)             (伊計島の灯台)             (米軍基地の中にある円錐形の灯台=伊江島) 

特に灯台マニアで片っぱしから灯台を見て回っているわけではないが、離島に行って時間があれば灯台を目指す。灯台が立つのは岬など突端部分だから、変わった風景やドラマチックな風景と出会えるのではないかという期待がわく。そんな範囲で離島の灯台の印象を語ると、慎ましやかな雰囲気のものが多いと思う。

岬で強い風と波にさらされながらじっと立ち尽くす。なんとなく灯台にまつわるイメージだが、離島全体に強風が吹きつけ荒波が打ち寄せているせいか、灯台だけが厳しい自然にもまれているという印象を受けない。また、離島という土地柄だろう、すらっと天にそびえるような大きなものは必要なく、ずんぐりとして、こじんまりしたものが多い。

しかし、そうした少し控え目で、離島の風景に溶け込むようなところに心惹かれるところがある。離島の端の岩場あたりに半分身を隠しながらも、真っ白な全身を輝かせながら立つ姿は何やらいとおしくなる。しかも、場所によって形が異なるところも面白い。オーソドックスな円筒形のほか、途中がくびれたものや円錐形のものもある。






離島の絶景ベスト10


沖縄の海の美しさはよく評判になるが、やはり開発の進んだ沖縄本島より、あまり開発されていない離島の方が美しく個性的である。昔ながらの沖縄らしい自然が残っているのだろう。自分で訪れた離島の中で最も印象に残った景色を10カ所紹介する。

白保のサンゴ礁 魚湧く海



  

石垣島白保では海岸から沖に向かって数十メートルも進めば、海中が広大なサンゴ礁に覆われていることに気づく。沖縄でも、まとまったサンゴ礁を見たいと思えば、船を使って移動しスキューバダイビングをする必要となるところが多いが、ここ白保では徒歩で海に入りシュノーケリングで十分楽しめる。

世界最大級のアオサンゴ群をはじめ、様々なサンゴがどっかりと海底に陣取り迷路のように入り組んでいる。色とりどりの小魚が行き交い、長さ数十センチはあるウツボが隠れるサンゴ礁は、巨大な生き物の揺りかごになっていることを実感できる。これだけ生き生きとしたサンゴ礁が気軽に見られるのは、沖縄でも非常に貴重な存在だろう。

しかし、白保のサンゴ礁も消滅の危機が迫ったことが。一度は新石垣空港の候補地となり、埋め立てられる可能性があったことは肝に命じるべきだろう。また、今でも白保のサンゴ礁を次世代に遺すために万全の環境にあるとはいえない。時折、大雨が降ると陸地から赤土が流れ出し、サンゴ礁を弱らせる要因になりかねない。

 



竹富島の家並み 無駄を削ぎ落とした美 


沖縄の海の美しさはよく評判になるが、やはり開発の進んだ沖縄本島より、あまり開発されていない離島の方が美しく個性的である。昔ながらの沖縄らしい自然が残っているのだろう。自分で訪れた離島の中で最も印象に残った景色を10カ所紹介する。

沖縄各地に今も昔ながらの家並みが残る。中でも、竹富島の家並みが美しさという点では群を抜いているだろう。部分的に古き沖縄が残る家並みがあっても、竹富島のように集落がまるごとというのは数少ない。

赤瓦の屋根と白い砂地の路地のコントラストが映え、それらの境界線となる灰色の石垣やみずみずしい緑がアクセントをつけ、風景にリズム感を与えている。何もよりも見る者を引きつけるのが、暮らしに余分なものがほとんど削ぎ落とされていることだ。少なくとも、外から眺める分には装飾らしきものはなく、すべて時間の流れのうちに消え去ったかのようだ。今の時代において、こうした景観を保つことは不便であり、相当な努力と地域の協力が必要であったろう。










竹富島の夕日 移ろいゆく海と陸と雲

海に沈む夕日はドラマティックである。果てしなく広がる海と空が赤く染まる光景に自然の雄大さを感じる。海に囲まれた沖縄では、夕日の「名所」が多いのも当然だろう。

 そうした名所の中でも、竹富島の西桟橋はトップクラスといえる。まず、海に突き出た西桟橋は、簡素で古びた雰囲気が、夕暮れ時に漂う寂寞感にぴったりなじむ。竹富島からは石垣島や西表島が望め、巨大な湾の中にいるようで、奥行きの深い風景になっている。素人の推量だが、海上に浮かぶ雲に比べ、石垣島や西表島の周辺に漂う雲は陸上と海上の温度差によって複雑な形に育っているかもしれない。変化に富んだ海面と陸地と雲が入り組み、移ろいゆく夕日を受けて刻々と表情を変える光景はいくら見ても飽きない。













渡嘉敷島の渡嘉志久ビーチ

那覇市からフェリーに乗り30分余りと手軽に行ける渡嘉敷島。港に着いて島の奥に進むと田んぼが広がる。小さな離島ながら山が多く水に恵まれているおかげで稲作ができるのだろう。その山の一つを上りきると、眼下には渡嘉志久ビーチが広がる。深い青をたたえる海は、手前の渡嘉敷島、奥の阿嘉島や慶留間島が描くなだらかな曲線に囲まれ、湖のように靜かである。島々を覆う濃い緑とのコントラスとも美しい。眺めていると、いつしか空と海の青は溶け合い、気分は空をゆっくりと滑る鳥になる。















平久保埼灯台 絶妙なコントラスト

石垣島の最北端に佇む平久保埼灯台。特別に形が素晴らしいわけではないが、周囲の地形が絶妙である。通常、灯台といえば見上げる場合がほとんど。しかし、平久保埼灯台は遊歩道から見下ろせる場所にある。180度、真っ青な東シナ海が広がる中央を、真っ白な灯台が占める。そのコントラストの素晴らしさに思わず息をのむ。白の割合は多すぎず、少なすぎず、計算し尽くされたように青をひきたてる。石垣市の中心街から北上し、だんだん島の幅が狭くなり「果て」の寂寞感が募り平久保崎にたどりつく。遊歩道の先にいきなり、ぐわっと広がる海の雄大さに圧倒されるのである。
















久米島東海岸 おだやかな遠浅の海


久米島は那覇市の西100キロに浮かぶ。周囲48キロ、総面積63.21平方キロあり、標高309.8メートルの宇江岳をはじめ比較的高い山が多く、海岸線も切り立った険しい崖が目立つ。その中で、東海岸と奥武島を結ぶ奥武橋周辺には、おだやかな遠浅の海が広がる。深いコバルトブルーの海面の上をなでるように奥武橋延び、周りには、やわらかな曲線を描く砂州や、こんもりとした緑の帽子をかぶった奥武島が見え、ゆるりとした時間が流れる。




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沖縄の信仰・宗教

沖縄のテラとは何か 

沖縄に豚肉文化が広まったのは、殺生を禁じる仏教があまり普及しなかったから、とする説がある。確かに沖縄を見渡すと、沖縄では古代から続く祖先信仰の影響力が強く、神社や寺院は少ない。一方、沖縄各地には「テラ」と呼ばれる地名が分布する。上の写真は粟国島の「洞寺(テラ)」と名付けられた洞窟である。一般的には「テラ」といえば「寺」を思い浮かべるだろうが、これは何を意味するのか。

民俗学者の仲松弥秀氏は著書『うるまの島の古層』の中で、「テラ」とは洞窟の墓とする仮説を紹介しいている。仏教を空気のような存在としてみなす本土人の感覚からすれば、仏教が広まって関連施設が建てられ、その場所を「寺」と呼ぶようになったと思いがち。しかし、仲松氏の仮説によれば、古代の人々はもともと洞窟に骨を収める習慣があり、その洞窟を「テラ」と呼んでいたが、仏教が同じ機能を持つ納骨所や墓を設け「寺(テラ)」と名付けるなど、土着信仰とうまく溶け合うことによって、民衆の心をつかみ広まったという。すぐに信じられるかどうかは別として、仏教以前の日本人の信仰や習慣を考える上で非常に示唆に富む。









沖縄の土帝君信仰





土帝君は中国の土地神の一つであり、沖縄には17世紀末に伝えられ、各地で集落の守護神や農業の神様として祀られている。長いヒゲを生やした、いかにも中国の仙人のような像を安置する地域が多いようだが、男女の2体の像があったり、石をご神体としていたりする地域もみられる。沖縄本島と周辺離島には50近い土帝君の祠があるといわれる。土帝君の読み方はどの市町村の資料かによって差があり、例えば、国頭村ではトーチーク、本部町ではテイティンク、西原町ではトゥティークーと呼ぶ。

土帝君の誕生日にあたる旧暦2月2日には土帝君祭が催される。国頭村奥間では、豚の頭、鶏、カニなどが供えられ、臼太鼓(ウシレーク)を披露。「ミミチングリー(耳摘ん御礼)」と呼ばれる礼拝をする。両手で両耳をつかんでお辞儀をして左に回るという動作を7回繰り返す。

数十センチの石を重ね合わせただけの小さな祠もある一方、本部町瀬底の土帝君は、県内で最大規模の礼拝施設を持つ(写真)。2段の石垣の上に小さな家屋ほどの拝殿や本殿が立つ。背後にはこんもりとした森が広がり、凛とした清新な空気が漂う。















沖縄の蔵骨器と龕 

 

壺屋の「やちむん通り」沿いには、何軒もの陶器店が並ぶ。沖縄の陶器は全般的に、繊細というよりは南国的なおおらかさを感じさせるものが多い。その中で、皿や湯飲み、茶碗といった生活雑器やシーサーとはまったく異なる雰囲気を漂わせるのが、家の形をした四角い陶器や円筒形の壷のような陶器が並ぶ一角。家庭に備え付ける金庫やそれ以上の大きさがあり、厚ぼったく表面には簡素な飾りしかない(左上)。

何に使うのかと思えば、骨を入れるための器である。人の死をにおわせる暗さはなく、あっけらかんとしていて味噌か醤油でも入れそうである。沖縄では以前は風葬や土葬が多く、白骨化した遺体を洗って収めるため、大きな容器が必要だったが、近年はもっぱら火葬になったことから、器も小ぶりになっているという。

人の死にまつわる沖縄の用具で特徴的なものは、ほかにもある。たとえば、棺を運ぶ龕。赤く塗られた屋形の担ぎ輿であり、ぱっとみたところはお祭りにも使えそうである。壁に描かれた僧侶や蓮の花に注目すれば、葬儀の用具らしさを感じるかもしれない。右上の写真は、豊見城市高安の龕である。







沖縄の霊石信仰


沖縄の人々にとって信仰の対象となる拝所(ウガンジュ)は、御嶽が比較的知られているが、それ以外にも拝所となっている場所は多い。たとえば、ビジュル(ビンジュルともいう)がその一つである。霊石を意味し、十六羅漢の一人、賓頭盧(びんずる)がなまった言い方だそうである。本土では、賓頭盧の像は自分が病む部分をなでると病が治るという「なで仏」だが、沖縄では、自然の石そのものをビジュルと呼ぶところに信仰の素朴さを感じる。

ビジュルは那覇市の焼き物の里「壺屋」にもあり、土地や集落を守るタチクチ(村建て)の神様を祀る場所になっている。すぐ後ろにはひときわ大きなガジュマルの木がビジュルを守るように立つ。壺屋のすべての行事がここで始まりここで終わる一番の聖地。旧暦の1月、3月、6月、8月、9月、12月には婦人会が中心になって、豊作、交通安全や地域の発展を祈るという。

仲松弥秀著『うるまの島の古層――琉球弧の村と民俗』(梟社 1993年)によれば、奄美諸島から八重山諸島まで、不思議な石が追ってきたり、海中に浮いていたりしたとするビジュル伝説が各地に残り、海の神、ニライカナイの神が乗り移ったものと信じられている。
















岡本太郎が語る御嶽


 

 園比屋武(そのひゃん)御嶽や首里森(すいむい)御嶽には、立派な石造りの建物があるが、これらはあくまでも門であり、祈りの対象となる本体はその奥にある森や石、空間である。本土の拝所は人間がつくった彫刻や建物が本体であるのに対して、沖縄では何気ない自然の一部が祈りの対象になっている。画家の岡本太郎が御嶽について『沖縄文化論』の中で次のように語る。

 「私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない――といって差し支えない、御嶽だった。御嶽――つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過してしまう粗末な小さな四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した」

 さらに、「驚嘆」の原因をこう分析している。

「なんにもないということ、それが逆に厳粛な実体となって私をうちつづけるのだ。(中略)それは、静かで、幅のふとい歓喜であった。あの潔癖、純粋さ。――神体もなければ偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。(中略)日本の古代も神の場所はやはりここのように、清潔に、なんにもなかったではないか。おそらくわれわれの祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感はこれと同質だった(中略)日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共生が生きているのだ」







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