沖縄を深く知るためのガイドブック
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沖縄の伝統芸能と行事

素朴な調べが響く首里のクェーナ

1028日、首里城内の特設会場(下之御庭)では首里城祭の「伝統芸能の宴」として、「首里のクェーナ」が上演された。クェーナとは各地域に歌い継がれている古謡。首里は琉球の首都であり「首里のクェーナ」には、王朝文化を象徴する歌詞が残るといわれる。

この日の演目は、神の国を意味する「アガリユ」、旅や航海の安全を祈る「ダンジュカリユシ」「ウリズンクェーナ」の3つ。いずれも7人の女性が輪になってゆったりと回りながら歌う。全員が同じ歌詞を斉唱する場合もあれば、言葉のかけあいをする場合もあるが、曲調は途中でほとんど変わることがなく、歌詞も同じフレーズの繰り返しが多い。声の調子には悲しみや喜びの激しい感情の淀みはなく、澄みきった流れがふわふわと天空に向かって昇るのを感じる。曲は歌声を中心に組み立てられ、最初の曲では楽器をいっさい使わず、残り2曲も小さな太鼓1つを軽く叩くだけだった。












足を激しく踏み鳴らす汀良町の獅子舞

台風のため延期になっていた那覇市首里汀良町の十五夜獅子舞が10月2日、地元公民館で上演された。

この獅子舞の動きで特徴的な点は、静と動のメリハリがきいているところだ。首をぴんと伸ばして視線を下に向けながら、ゆっくりと頭を回したかと思えば、突然、頭を激しく上下に振ったり飛び跳ねたりする。

時折、足を激しく踏み鳴らすが、前足と後ろ足を交互に上げるのでなく、左の前足と後ろ足を同時に上げ、次に右の前足と後ろ足を同時に上げるという動きを繰り返す。歩くときも、同じように左の前足と後ろ足を同時に上げ、右の前脚と後ろ足をあげるという特徴的な動きをする。

しばらく荒れ狂ったように暴れた後、ぴたりと動きを止め、ゆっくりと頭だけを回す。この静と動の反復が基本らしい。演奏は銅鑼の音だけで、他の獅子舞によく使われる三線の音はまったくない。獅子を誘い出すワクヤーもなく、まったく獅子の独演である。一般の獅子と子ども獅子が交互に同じ演目をこなしている点も、ほかの獅子舞と比べ特徴的なプログラム構成といえよう。









月夜の首里城で歌や組踊


  

 巨大な瓦屋根の赤い建物の上には月がかかり、下に設けられた舞台では、赤、青、紫、金など色とりどりの衣装をまとった男たちがゆったりと舞う。舞台奥に居並ぶ男たちは、闇夜から一音ずつすくい上げるように胡弓、三線、琴などを奏でる。

 琉球王国時代、新国王の任命式のために招いた中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」を歓待する宴会は7回催されたが、そのうちの一つで中秋の名月の夜に開かれる「中秋の宴」が9月18日、首里城の正殿前広場「御庭」で再現された。

この日披露されたのは、冊封使をもてなすために発展した琉球古典芸能の歌や踊り、劇である。白く塗られた演者たちの表情にほとんど変化がない。意識的に無表情を貫き、手足の動きや所作、演奏の変化や歌で演者の心境を表そうとしている。スポットライトで明々と舞台を照らす現代とは違い、かがり火くらいしか明かりがなかったため、表情の微妙な変化は観客に伝わりにくい。直接、表情に出す以外の表現方法を探ることによって、感情表現に奥行きと幅が生まれていった。陰影深き夜の舞台を眺めながら、そんなふうに勝手な想像をめぐらしてみた。









知名のヌーバレー 


 「伊集の打花鼓」の次には、南城市の「知名のヌーバレー」が上演された。ヌーバレーは旧暦7月16日、旧盆の時期にあの世からやってきた無縁仏を返す行事。多くの演目があるが、この日披露されたのは、若者たちが蝶と花に扮して飛び跳ねながら踊る「胡蝶の舞」と、花笠を被り四つ竹を鳴らしゆったりと舞う「仲里節」である。「動」と「静」のコントラストがはっきりし衣装の華々しさが目を引く。神々に奉げるとか重厚な伝統というよりは、庶民が肩肘張らずに楽しめる「村の芸能」の雰囲気がある。






伊集の打花鼓(ターファークー)

「北谷の南ヌ島」に続き、中城村伊集の打花鼓(ターファークー)が演じられた。見るからに、日傘、棒、楽器などを持った中国人の行列である。特に、小さな鼓を持った男2人と、小さなシンバルンのような楽器を持った男1人が前列に立ち、飛び跳ねたり体をのけぞらせたりしてダイナミックに動き回る。もともと、中国人の子孫からなる久米村(現在の那覇市の一部)で上演されていたが、同村で奉公していた者が中城村伊集に持ち帰ったといわれる。久米村ではこの芸能は消滅し、伊集のみで継承されている。














北谷の南ヌ島

 

首里城祭・伝統芸能の宴で1031日、「北谷の南ヌ島(フェーヌシマ)」が披露された。この演目は、12年に1度開催される北谷三カ村大綱引きの道ジュネーで演じられる。

フェーヌシマは沖縄本島から八重山まで各地に伝わる、出所不明の風変わりな芸能である。学術的な定義は難しく、被り物や仮面をつけ棒を持って打ち合いながら、飛び跳ねたり奇声を発したり意味不明の詞を歌ったりすることが共通する特徴のようである。

北谷のフェーヌシマを見るのは初めてである。赤いかつらをつけて2人1組になって打ち合い、時折飛び跳ねて「ハウー」と奇声を上げるなど、ほかのフェーヌシマと大筋は一緒である。全体的な雰囲気が荒ぶる鬼である点は、北中城村熱田のフェーヌシマに近い気がするが、輪になって踊る熱田とは異なり、北谷は直線的に並びながら踊る。2人1組になり、一方が相手の背中の上で1回転する動きは、熱田にはなく、那覇市安里のフェーヌシマに近い気がするが、北谷のフェーヌシマで2人1組が向かい合い披露する空手の突きのような動きは安里にはみられなかった。

フェーヌシマは共通する部分がありながらも、まったく同じものはなく地域によって異なるところが興味深い。






葬送儀礼の移りかわり 

 元沖縄県文化財保護審議会会長の崎原恒新氏が1017日、県立博物館で「葬送儀礼の移りかわり」と題した講演を行った。研究者の理論的な話はほとんどなく、庶民への聞き取りの中で集めた具体的な話が中心だったため、一般の人にも親しみやすい内容となった。

 崎原氏の話によれば、戦後になってから葬送儀礼に関して変わった点は多い。最も重要な点の一つが火葬だろう。庶民の間に火葬が広がるのは1960年代だが、当初は抵抗感を覚える人は少なくなく、親族や家族に「焼いてくれるな」と言い残していた。焼かれることによって二度死ぬという考えが広まっていたらしい。また、祖先を送る旧盆最終日は旧暦7月15日が定着しているが、1950年代までは旧暦7月16日だったという。

 また、地域によってさまざまな風習があったことも興味深い。死んだ翌日、生き返っていないか遺体を確認したり、近くで大声を出して名前を読んだりするところがあった。あの世で使うお金「ウチカビ」を墓の前で焼くことは広く知られているが、あの世で耕し食べるために畑を用意するところもある。49日のうちに、故人に思い残したことがないかどうかユタに会い聞くところもあるという。














夜に催されていた那覇大綱挽

 

 那覇大綱挽は「体育の日」の前日(日曜日)、青空の下で開催されるが、かつては夜中に行われていた。現在は午前11時半に旗頭の行列が出発、大綱挽の本番は午後2時半過ぎから始まるが、『那覇大綱挽20周年記念誌』(那覇大綱挽保存会 1991年)に掲載されている大阪朝日新聞・大正10114日付によれば、旗頭は午後3時に出発、綱引き開始は午前零時過ぎだった。しかも、現在は30分の時間制限があり、それまでに勝負が決まらなければ引き分けだが、当時は延々と何時間も勝負が決まるまで続いたようである。同紙は次のように紹介している。

 「やがてこの旗頭行列も全市を練り廻った上〓〓長蛇の火の行列と化して松明や提燈美しく綱引場に入ってきます。それは通堂大通という市内目貫きの電車道で糖商組合事務所がその中心に位し、アーク灯は不夜城の如くに輝き、この一帯は全く火の海と化します」

 「やがて開始以来、約四時間、東天微かに白もうとする午前四時に至って遂に西軍がドッと勢いづき、とうとうその捷利に帰し、歓呼の声天地を揺るがさんばかりのうちに、威勢よく凱旋を奏して輝く旗頭を押し樹てて敵地に邁進し、負けた東軍は旗頭を倒して逃げる」

 南風原町喜屋武地区のように、現在でも夜中に綱引き行事を開催する地域がある。写真は、その喜屋武地区の綱引き。昼間の綱引きとはまったく違った雰囲気が漂い、特に松明の明かりは見る人の暴力的な感情や狂気を刺激するところがあるのかもしれない。焚き火は見る人の心をなごませるのとは対照的であり、火とは不思議な存在である。





ガーエーから綱の合体へ 那覇大綱挽の本番

 

那覇大綱挽は午後2時45分ごろから、本番の式典が国道58号の久茂地交差点で始まる。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は次のように紹介している。 

「那覇大綱挽では旗頭の行列が終わると、綱引きの両陣営が向かい合って「ガーエー」が始まり、決戦ムードを高めていく。ガーエーとは勝負という意味であるが、見た印象としては、直接対決するというよりは相互に披露するくらいの感じである。それぞれの陣営で空手の演舞をしたり、有名武将ら歴史上の人物に扮した男たちが、台の上に乗って現れ、境目あたりで向き合い見栄を切り合ったりする(支度ガーエー)。

 さらに、こうした演目とは別に重要な作業が残されている。沖縄の綱は基本的には、雄綱と雌綱に分けられてつくられ、引く直前に合体させる。両方の綱の頭部(カナチ、カヌチ)には輪がつけられ、この輪を重ねて貫棒(「カナチ棒」や「カヌチ棒」と呼ぶ)という丸太を入れて固定する。那覇大綱挽ほど大きくないにしても、沖縄の綱は長さ数十メートル、直径数十センチ~一メートルほどの大きさがあることは珍しくなく(★1)、少し動かすのでも容易ではない。両陣営の境界線のところに2つの綱をきっちり寄せ、さらに両綱の頭部を重ね、大人が数人がかりで重い貫棒を差し入れる。外れないようにしっかり固定すると、会場には不思議な安堵感が広がる。黄色い太い綱が絡み合う間に黒々とした棒が食い込む光景は、未知の巨大な生き物がうずくまっている姿を想像させ、重要な儀式が完了したことを感じさせる」






那覇大綱挽で盛り上げ役の旗頭 

 

那覇市を代表する年中行事の一つ「那覇大綱挽」が1012日、開催されるが、行事としての「大綱挽」は、旗頭を中心とした「ウフンナスネーイ(大綱挽行列)」と大綱挽本番の2部構成である。最初の「ウフンナスネーイ」は午前11時半から国際通りで繰り広げられる。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は、その模様を次のように紹介している 

「旗頭は幟★のぼり★の一種であり、地域の特色や伝統を表す「シンボル」ともいわれる。竿の長さだけで六メートルを超え、先端部分にはさまざまな飾りが施されている。地域ごとに十数人のグループで登場するが、旗頭を持つのは一人。たてたまま上下左右、前後に動き旗頭を舞い踊らせる。

交代で持ちながら国際通りを行進する。旗頭の重量は五十~六十キロあり、風をはらむとさらに重さが増す。頭上には何本もの電線が通り、ところどころ街灯がつき出ている。少しバランスを崩して思わぬ動きをすることも珍しくない。旗頭が倒れれば、観客に怪我を負わせたり、電線を切ったり、建物を壊したりしかねない。

地域のほかの若者たちが、旗頭に付けた綱を引っ張ったり、刺股★さすまた★のような道具を使って支えようとしたりするものの、旗頭が傾くたびにひやりとして気分になり観客もどよめく。若者たちは、サージという布を頭に巻き、ムムヌチハンター(股引半套)と呼ばれる黒い衣装で統一。旗頭の舞にリズムをつける太鼓や鉦、ぶら(ほら貝)の演奏がひっきりなしに続き、独特の緊張感と高揚感をつくる。一時間半ほどかけ、デザインの異なる十四の旗頭が国際通りを通り過ぎていく











沖縄の葬儀と墓を考える

 

 沖縄県立博物館で特別展「琉球弧の葬墓制 風とサンゴの弔い」が9月25日から1123日まで開催されている。題名のとおり、琉球列島で人がどのように葬られてきたか移り変わりをたどる展示である。

 この地の葬り方でまず目を引くのは洗骨の儀式だろう。時間をかけて死者を白骨化させた後、骨を洗い清め葬り直す。腐敗の速い亜熱帯の気候を利用し、遺体をコンパクトに厨子(甕)へ収納できる利点があるのかもしれないが、死者・祖先との結びつきを抜きにしては語れないだろう。現在の我々では、とても白骨化した遺体を洗うという作業はかなり厳しい。当時の人にとっても楽な作業ではなかったはずだが、死者・祖先を敬う気持ちがそれを乗り越え、洗骨の儀式を経ることよって、さらに死者・祖先を弔い、残された家族・一族で絆を強めこの世を生き抜く気持ちを強めたことだろう。一部の地域では現在でも、洗骨の儀式が続いているという。

 また、印象深いのは墓の形である。崖をくりぬいた墓、上にサンゴを積み重ねただけの墓、亀の甲羅のような亀甲墓など、地域や時代によって形は違っても、強い自己主張をせず風景に溶け込んでいる。あたりに漂う自然の力を集め、ささやかな宗教儀式をする祠のようだ。死後は自然に帰るという意識が浸透していたのかもしれない。












真栄里の大綱引は激しいぶつかり合いも 

 

 旧暦の8月16日には糸満市真栄里で大綱引が催されるが、当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』はその模様を次のように描いている。

「真栄里大綱引きはガーエーが特徴的である。東と西の引き手たちが綱を担いで現れると、それぞれの陣営からまず棒術の男が、次いで剣を持った武者が、次に獅子舞が、東西を分ける境界線近くまで進み出てお互いに挑発し合う。綱の引き手たちが塊になって棒をガチガチぶつけ合いながら対峙すると、対決ムードは最高潮に達した。中央で白シャツに「内訳人」と書かれた腕章をまいた数人の男たちが、東西が直接ぶつかり合わないように押しとどめる。

 互いに挑発するのは儀式であることは分かっていても、引き手たちが真剣に演じているうちに本気で対抗心を燃やしているように思えて、その緊張感は観客にも伝わり、「一発触発」の雰囲気になる。

直接衝突の寸前で、「内訳人」によって東と西に引きはがされると、綱引きの準備に入る。ほかの綱引きと同じように、杭のような太い丸太を差し込み繋げるので、少し時間がかかる。この時間がさらに緊張を高める。

 綱引きは一発勝負である。西の勝ちが決まり西の引き手たちが勝利の余韻にひたる間もなく、綱が端によけられ、西と東の男たちが上半身裸になり、スクラムを組むように塊になり、直接ぶつかり合う。二度ぶつかった後、「内訳人」に引きはがされるが、「お互いによく頑張った」とたたえ合う和気藹々の雰囲気はない。西と東のそれぞれの陣営で、棒術や空手の演舞を繰り返し、挑発は続くのである」

 





休憩タイムもある糸満大綱引 

 

 

旧暦の8月15日にあたる9月27日には糸満大綱引が催される。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』はその模様を次のように描いている。

「交通規制をした国道三三一号(白銀堂―糸満ローターリー)を会場に開かれる。綱の引き手も観客もサラリーマン化が進む中、那覇と与那原が休日開催に移行するが、漁師の町、糸満は旧暦開催を通している。

大綱は雄綱と雌綱合わせて長さ百八十メートル、重さ十トン。あらかじめ会場に用意され、大綱引の前に各地区の旗頭が目抜き通りを練り歩き会場を盛り上げる点は、那覇大綱挽と同じである。旗頭の担ぎ方は与那原が右手一本で支え、横から添える左手でバランスをとるスタイルなのに対して、那覇と糸満は腰のあたりに巻きつける帯を腹の部分だけ厚くし、ここに竿を乗せバランスをとることが一般的。ただ、糸満では旗頭を額や胸に乗せ両手を離したり、片手だけで持ち上げたりして、度胸や技量を見せつけるパフォーマンスが多いように思える。

また、糸満大綱引は引き方そのものにも特徴がある。いったん綱引きが始まっても休憩時間が入るところだ。最初は両者が同時に引き合うが、その後は一方が引いているときに、もう一方が綱の上に腰を下ろして休憩し、しばらくすると引く方と休む方が逆になり、これを交互に繰り返す。重量のある綱であり、簡単に動かないせいもあるが、どこかのんびりした雰囲気が漂う」







地域によって違う沖縄の獅子舞 

 沖縄ではお盆や秋の豊年祭に獅子舞が演じられることが多いが、地域のよって獅子舞の姿や踊り方にかなり差がある。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は、次のように紹介している。

「毎年うるま市で開催される「全島獅子舞フェスティバル」(※)は、地域によって獅子のデザインや踊り方に特色があることを実感できる貴重な機会だろう。さまざまな地域の獅子舞が披露される。

南城市玉城や宜野湾市大謝名のように、獅子とワクヤーの格闘の激しさが特徴的なものもあれば、うるま市兼箇段のように、獅子が休息しているときの細かな体の動きが特徴的なものもある。一方の演者がもう一方の演者を肩車して獅子が仁王立ちをしたり(うるま市南風原、天願など)、旗頭の周りを人と獅子が一緒になって回ったり(名護市嘉陽)することもある。

決まった演目をこなすだけでなく、アドリブを入れ会場をわかせることもある。舞台から落ちた毬を、近くで見ていた来賓が舞台に投げ返そうとするが、とんでもない方向に毬が行くと、獅子は「なんてことするんだ」とでも言うように来賓をきっとにらむ。絶妙の演技に来賓は思わず「すいません」と頭を下げ、客席から笑いがもれる。

何といっても会場が盛り上がるのは、演舞の終盤に獅子が客席に乱入したときだ。子供たちは恐れて逃げるのではなく、近くで見たい、直接触れたいと集まってくる。獅子舞の「霊力」にあやかろうというのだろう、獅子の前に自分の子供を突き出す外国人の親もいた」

※全島獅子舞フェスティバル

旧暦九月十五日に近い日曜日、うるま市教育委員会の主催で開催。県内の数団体の獅子舞が招かれ披露される。県外の獅子舞や獅子舞以外の芸能が上演される。近年、開催地はうるま市安慶名闘牛場だが、年によって変わる可能性あり。開催日も必ずしも旧暦九月十五日に一番近い日曜日とは限らないので、観覧希望の場合は要確認。問い合わせ先:うるま市教育委員会文化課 098-973-4400









中秋の名月と沖縄の獅子舞

来る9月27日は旧暦の8月15日にあたり、中秋の名月がみられる日でもある。沖縄各地で豊年祭や綱引きなど大きな年中行事が催されるが、このとき、よく上演される演目の1つが獅子舞である。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』では次のように説明する。

「関東地方で生れ育った著者にとって、獅子舞といえば、正月に登場し、ユーモラスさが入った赤ら顔の獅子頭を、草色の大きな布をかぶった一人の男性が操る。動きは、音楽に合わせて体を揺らし、様式化された踊りである。

 これに対して沖縄の獅子舞は、ユーモラスというよりは精悍な顔つきに、体は全身が長い毛に覆われ、大きな獣のような容貌。中では二人が一組となって、犬やライオンなど現実の動物を彷彿させるリアルな動きを演じる。チャイナタウンで演じられる獅子舞とかなり異なる。舞う時期も、厄払いや五穀豊穣を祈願してお盆(旧暦七月十五日)や秋の豊年祭(旧暦八月十五日など)が多い。沖縄本島北部から八重山地域まで幅広く分布し、県内に百八十の獅子舞が存在するといわれる。
 毎年うるま市で開催される「全島獅子舞フェスティバル」は、地域によって獅子のデザインや踊り方に特色があることを実感できる貴重な機会だろう。さまざまな地域の獅子舞が披露される。

 ワクヤー(誘者、獅子使い)と呼ばれる人物が、紐の付いた(まり)などを使って獅子を誘い出し、挑発しながら獅子と格闘。ワクヤーが毬を残して舞台から去ると、獅子は毬と戯れ始める。沖縄の獅子舞ではよくみられる展開であるが、地域によって演じ方に違いがみられる












小浜島のダートゥーダー


 沖縄各地に神秘的でユニークな伝統芸能が多く伝わるが、中でも小浜島の「ダートゥーダー」は特異さが際立つといわれる。那覇市のぶんかテンブス館で9月17日、小浜島で毎年秋に催される結願祭の9演目が披露されたが、その1つとしてダートゥーダーが上演された。

 4人の男性で演じられる演目である。タイツのように体に密着した黒っぽい長袖、長ズボンという姿に、胸には前かけのような白い菱型の布をまとう。くちばしのように尖った鼻と赤い髪の毛を持つ黒い仮面をかぶる。  こうした出で立ちで、着物姿の若い4人の女性の後に続いて、一列になって登場。それぞれ、立てれば肩の高さまでくらいある細い枝を手にしている。一歩ごとに膝を折って顔を前に向け後ろに向ける。女性たちが舞台から消えると、4人は輪になって向かい合って踊り、時に枝と足を同時に振り上げて奇声を発し、時に同じところに立ったまま、周りに枝で円を描くように回転する。最後の方には、2人1組になり、一方がもう一方を抱え上げたり、騎馬戦のように組んだ2人の上に1人が乗ったりする。

 ダートゥーダーはフェーヌシマ(南島)の1つとする説があるが、確かにこれまで見た那覇市安里や北中城村熱田のフェーヌシマと共通点があるように感じた。被り物を身につけ棒を持ちながら輪になって踊り、意味不明の歌詞や所作を繰り返す点は似ている。一方、安里や熱田のフェーヌシマは全体として鬼や武芸者を思わせる動きだが、ダートゥーダーは全体として鳥をイメージした動きや奇声のような気がする。まったく個人的な印象だが、ダートゥーダーもフェーヌシマもとにかく突拍子もないことをすることによって場の空気をかき乱し、祭りの大きな役割である「世界を改める」に寄与しているではないか。











独特の所作が際立つ与那の海神祭





国頭村与那でも旧盆明けの初の亥の日にあたる9月8日、ウンジャミ(海神祭)が催された。簡素ながらも独特の所作が織り込まれた興味深い儀式だった。

本番の20分ほど前に公民館前に着くと、すでに白い着物を羽織った神女2人が敷地内に設けられた祠で祈っていた。その後、隣の東屋のような建物で椅子に腰かけると、男衆から代わる代わる御神酒を注がれた杯に口をつける。御神酒のおすそ分けがまわりで見ている人たちにもあり、年配の男性たちが注いでまわる。

やがて2人の神女は立ち上がり、集落の南にある小さな四角い更地まで歩く。ここで山の方を向いて祈った後、長い矢を杖のように持ち更地に入って土地の淵に沿って回る。前の神女が祈りの言葉を唱え続け、後ろの神女が1周回るごとに下に小石を置く。

2人は公民館に戻ると、広場に立てた2本の竹竿の間に渡した綱を握って横に並ぶ。その左右には少し離れて男性が一人ずつ立ち、神女の歌声に合わせてゆっくりと、先に小さな円盤がついた竹竿を振り下ろしたり上げたりする。円盤には三日月と満月らしきものがかたどられている。月の運行を表す儀式かもしれない。

さらに、猪に模したトウガンを竹竿から糸で吊るし男性が弓矢で射ぬいたり、魚に見立てた子どもたちを網でからめ捕ったりした。小太鼓を打つ男性と神女に導かれながら、子どもたちが矢のついたままのトウガンを担ぎ海まで歩いた。神女が祈りの言葉をかけトウガンは海に流された。一連の儀式が終わった後、神女が「旧盆で戻ってきた魂のうち、あの世に戻れずにこのあたりを漂っているものを送り返してあげる意味もある」と言っていたことが印象に残る。







神々しい空気漂う比地のウンジャミ

  

旧盆明けの初の亥の日にあたる9月8日、子孫繁栄や豊作豊漁を祈願するウンジャミ(海神祭)が沖縄本島北部で催された。国頭村比地では、集落を見下ろすアサギ森(小玉森)が会場となった。

鬱蒼と木々に覆われた斜面を上り、ところどころに小さな祠を左右に見ながら一番高いところまで行くと、アカギやフクギの巨木が何本も生える広場にたどりつく。長さ5メートルほどはあろうか、大きな茅葺き屋根の神アサギもあり、ひんやりとした神々しい雰囲気があたりに漂う。アカギ一本一本が、どの門中の神木と決められているという。

ウンジャミの始まる20分ほど前にあたる午後2時40分ごろ着いたが、すでに広場の祠の前に集落の人たちが列をつくって祈りを捧げたり、巨木の下にブルーシートを広げ腰を下ろしたりしていた。お餅や魚類、米など行事の中で神さまにお供えする料理も準備されていた。猪の肉の代用品である豚足や、ネズミに似せた木の根を入れた青パパイヤの実を木の枝から吊るしていた。

木の枝や葉を頭に巻き、白い着物をまとう神女は1人だけ。神アサギの奥に座ったまま、何人かの男性から供え物を受けた後、神アサギから出て前の広場で、素朴な歌に合わせてゆっくりと踊った。大きな動きはなく左右に小さく体をゆすったり手を軽く振ったりする程度。続いて、縦縞の着物の男性が弓を持ち駕籠を矢で射った。猪らしき動物の動きをまねた男性2人が広場を回り立ち去る。かつて農作物を荒らしていた猪の退治を意味するのだろう。

その後、男性2人が稲藁の綱で作った輪の両端を握り、シークワサーの実がのった盆(白い粉がかけられている)を持って神女がその輪の中に入った。男性2人が輪を前後に何度か引いたり緩めたりしたかと思うと、神女がお盆を引っくり返し、集落の人々が落ちたシークワサーの実を集めに走った。神さまが与えてくれる豊饒を象徴するのだろう。儀式は淡々と進められ、これで終了。30分ほどだった。最後は唐船ドーイをみんなで踊った。










エイサーとコンクール

この疑問に答えることは容易ではないが、1つの重要なヒントを与えてくれるのが、沖縄市企画部平和文化振興課『エイサー360° ―歴史と現在―』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会 1998年)である。戦後、沖縄市域のエイサーの大きな変化が起きるきっかけになったのは、コザ市で始まったエイサーコンクールと指摘する。

同書では、①従来の手踊り主体から太鼓主体のエイサーへの変化、②女性の参加、③衣装の変化、④従来の輪踊りから複雑な隊列踊りへの変化など、主に4点で大きな変化が起こったとしている。コンクール形式をとることで、参加する青年会は、より見栄えのする方式を探求し採用していったという。採点や順位づけがなくても、さまざまな青年会が一堂に会することによって、互いの歌や踊りを比べ、より観衆にアピールするものにしようとみることは自然であり説得力を持つ。

沖縄のエイサー全体の歴史に加えて、青年会ごとのエイサーの歴史や特徴も紹介している。
















街角のエイサー演舞

来週(9月26日~28日)は、沖縄で最も重要な年中行事の一つである旧盆。各地の街角で地元青年会がエイサーの演舞を披露するが、中でも賑わいを見せるのが沖縄市の諸見百軒通りだろう。旧盆最終日の深夜には、いくつもの青年会が繰り出し「エイサー銀座」となる。弊社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』では次のように紹介している。

地元を飛び出した青年会が交錯することもある。諸見百軒通りは車両がようやくすれ違える程度の幅で、長さ五百メートルほどの小さな通りだが、午後十一時を過ぎると、次から次へと各地の青年会がやってきて「エイサー銀座」と化す。二つの青年会が通りで鉢合わせになることもあり、すれ違いながらも歌と演奏を続け、自分たちのリズムや演舞を崩した方が負けという「ガーエー(激しいもみあい、ぶつかり合い)」になる。

午後十一時前から、沿道には今か今かと待つ人たちの姿がちらほら見られ、午前零時を過ぎると、道の両側に二重三重に人垣ができ、太鼓や小太鼓を持って飛び跳ねる演者たちとの距離はほとんどなく、よくぶつからないなと思うほどである。すぐ間近で踊り手の熱気や太鼓の響きを感じられるところが、旧盆に繰り広げられる地元エイサーの魅力だろう」












地域差が大きい南風原町の綱引き


    
(津嘉山の綱引き)             (兼城の旗頭)               (兼城の竜蛇、ジャー)              (爆竹が鳴り響く兼城の棒術)

  
(松明ともに現れた喜屋武の綱の引手たち)    (掴み合いのけんかの一歩の手前)         (ひりびりとした緊張感が漂う喜屋武の綱引き)

8月10日、南風原町の各集落で雨乞いや五穀豊穣を祈る綱引きが行われたが、同じ町内であり距離的にはさほど離れていないにもかかわらず、集落ごとに雰囲気がまったく異なり興味深い。

津嘉山では、まだ日の光が残る午後7時から幼稚園の運動場で綱引きが始まった。ホラ貝やドラの音が鳴り響き、戦いのムードを盛り上げているが、張り詰めたような緊張感はない。揃いのTシャツやハッピを着た人が多くアットホームな雰囲気である。

兼城では大量の爆竹が鳴らされる。午後9時の綱引きの20分ほど前から、東西に分かれて綱の引手たちが棒術を披露するが、このときからひっきりなしに火をつけた爆竹が投げ込まれる。東西の綱が公民館の前に運び込まれると、旗頭の演舞を開始。旗頭の持ち手たちが円を描きながら体をぶつけ合うような独特の動きを見せる。地面の上では爆竹が鳴り続け、災いを焼き清めるという火花が竜蛇(ジャー)の口から次々と飛び出し頭上を越えていく。あたりに立ち込めた火薬の煙が演舞者たちを包み、幻想的な光景となる。

喜屋武は「けんか綱」と呼ばれる。午後10時半すぎ、綱の引手たちは松明を先頭に大綱を担いで暗い通りから現ると、ピリピリとして緊張感が一気に会場を覆う。東も西も、綱の先頭に構えるのは体格のよい若者たち。目は血走り表情は戦闘モードに入っている。まず、東西の綱を合体させようとするが、うまくいかず両陣営にイライラが募る。掴み合ったり相手を引き倒したりするいざこざが起き、怒号が飛び交う。これまでに見た他の綱引きでも、ムードを高めるために挑発し合う場面があったが、あくまでも儀式の一つ。喜屋武の場合、本気の乱闘に発展するのではないかとヒヤヒヤした。









締太鼓を蹴り上げるエイサーも

以前の記事でうるま市のエイサーに触れたが、これ以外にもユニークなエイサーが各地で演じられている。弊社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』では次のように紹介している。

「名護市城(ぐすく)青年会の演舞を見ると、エイサーは本土の盆踊りとつながりがあるのかもしれないと思う。城青年会では、男女が入り交じって輪になり、手踊りだけで演じる。四つ竹や扇子を使う場面があるものの、太鼓は拍子をとるだけ。手踊りを中心としたエイサーは沖縄本島北部に多いといわれる。このほか、屈伸運動のように飛び跳ね、柄のついた小太鼓(ウスデーク)を叩きながら踊る金武町中川区や、左手で顔の高さあたりに突きだした締太鼓を左足で蹴り上げる読谷村高志保青年会などもある」






うるま市のエイサー 

 エイサーといっても、衣装や踊り方、隊列の組み方など地域によってかなり差がある。これからの季節、エイサー関連のイベントが多いので、地域による違いに注目すると興味がより増すのではないだろうか。うるま市で特徴的なエイサーについて弊社の『沖縄の伝統芸能を歩く』は次のように説明している。

「沖縄市をはじめ最近のエイサーでは、鮮やかな色を使った衣装でそろえ、大太鼓を中心にダイナミックな動きをみせる演舞が多いが、「伝統エイサーの里」を名乗るうるま市では、対照的な演舞を繰り広げる青年会がある。平敷屋や与那城、平安名の各青年会は、僧侶の袈裟に似て白と黒を基調とした素朴な衣装に素足。太鼓演舞では大太鼓を使わず、パーランクーと呼ばれる手持ちの片張り太鼓を細いバチでたたく。動きはゆったりとしている上、腰の沈め方、脊の伸ばし方、足の曲げ方など、見えない力に引っぱられたような独特な動きをみせる」










エイサーの移り変わり

8月2日、那覇市の国際通りで「一万人のエイサー踊り隊」が繰り広げられる(午後1時開始)など、沖縄はそろそろエイサーの季節である。もちろん、そのまま見ても楽しいが、エイサーの基本と歴史を知ればもっと楽しめる。弊社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は次のように説明している。

「青年会の旗を持つ旗頭を先頭に、重量のある大太鼓が全体の音頭取り役を務め、続いて、大太鼓より軽い締太鼓が華のある大胆な演舞をみせる。この後、男性手踊り(イキガモーイ)、女性手踊り(イナグモーイ)の順で隊列を組み、白塗りの奇抜な化粧をしたチョンダラー(サナジャー)が道化的な役割をしながらも道先案内役や隊列の整理役をこなす。さらに、三線を弾きながらエイサーの歌を熱唱する地方・地謡(じかた・じーうてー)が演舞を盛り立てる(★1)。

現在、沖縄市をはじめ各地で主流になっているエイサー隊列だが、最初からこの形態をとっていたのではない。エイサーの起源には、一六〇三年から一六〇六年にかけて琉球王国に滞在した浄土宗の袋中上人が踊り念仏を伝え、それが沖縄の盆踊り、エイサーに発展したという説がある。定説ではないが、念仏踊り(※)がエイサーと深いかかわりを持つとする見方は強い。

小林幸男「エイサーの分類」(★2)によれば、もともと、念仏歌を歌い踊る念仏エイサーが明治中期から昭和初期には、きちんとした振り付けが施され曲数も増やして芸能の性格を強めていった。ただし、明治末期では、太鼓の数はそれほど多くなく、現在のように手踊りと太鼓打ちの区別がはっきりしておらず、太鼓まじりの手踊りくらいだったようである。昭和に入ると、エイサー団体どうしの交流や興業的なエイサー活動を通じ、他地域のエイサーの優れていると思われる部分を取り入れ、特に太鼓を使った踊り方が練り上げられる一方、長い念仏を唱えるエイサーが急速に衰退していったという。

さらにエイサーの姿が大きく変化したのは、一九五六(昭和三十一)年からコザ市(現在の沖縄市)で始まった「全島エイサーコンクール」だった。地域に密着したお盆の行事から、不特定多数の観客を意識しエイサー団体が競い合う芸能の色合いを濃くしたのである。

太鼓や大太鼓の数が目立って増えた上、太鼓の打ち形でも太鼓を回して蹴り上げたり、踊り手が飛び跳ねたりするなど新しい技が登場。隊列も単純な直列や円陣から、マスゲームやマーチングバンドのような複雑に変化するスタイルに移っていった。思い思いだった踊り手の衣装も、鮮やかな色を使い洗練された衣装に統一され、曲も新しい民謡が取り入れられるようになった。(23)

 

※念仏踊り

太鼓や鉦の音に合わせて、節をつけながら念仏や和讃を唱え踊ること。和讃とは、仏や菩薩の教え、高僧の徳などを和語でほめたたえる賛歌

1:沖縄市観光協会エイサープロジェクト「沖縄市エイサーミニガイドブック」

2:沖縄市企画部平和文化振興課『エイサー360°―歴史と現在-』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会 一九九八年)

3:久万田晋『沖縄の民俗芸能論 神祭り、臼太鼓からエイサーまで』(ボーダーインク 二〇一一年)」









部外者禁止の秘祭、アカマタ・クロマタ





沖縄の祭りには興味があり、都合があえば見に行くようにしている。たいていの祭りは、地元以外の人々でも気軽に見られるが、中には部外者が目にすることを厳しく禁じる祭りもあった(現在は違っているものもある)。


新川明著『新南島風土記』(岩波書店 2005年)が紹介する八重山のアカマタ・クロマタの祭祀もその一つである。「『猛貌の神』が身に草木の葉をまとい頭に稲穂をいただき、とあるように木彫りの面をつけ、草木の葉を重ねて身を包んだ神で、その面を朱にそめてあるのがアカマタ、黒いのがクロマタと俗称されるのである」。

「夕刻、聖地の杜を出た異形の神は夜を徹して家々をまわり、島びとを祝福し、鼓舞し、夜が明けそめる直前、涙にくれる女たちの惜別の歌の絶叫におくられて杜に還ってゆく」。

ややもすると、祭りを何の気兼ねもなく見られ、しかも映像や画像に収められることを当然のように振る舞いがちだが、祭りはあくまでも、深い信仰を抱く土地の人々のためのものであり、この人々が生きるために行っていることを思い起こさせる文章である。














角をぶつけ合うヤギたち

ゴツン、ゴツン。鈍い大きな音が響き渡る。雄ヤギどうしが角をぶつけ合っている。5月4日、本部町の瀬底島で開かれた「闘牛」ならぬ「闘ヤギ」の「ピージャーラサイ」で見られた光景である。

円形の檻の中で、2匹の雄ヤギが放されると、誰に教えられたり指示されたりしたわけでもないのに、角をぶつけ合う。一方が前足で上体を跳ね上げると、もう一方は頭を下げて合わることもあれば、もう一方も同時にジャンプして空中でぶつかり合うこともある。見事なタイミングで角と角が打ちつけられ、その音の大きさに角が折れたり頭の骨が割れたりしないか、ひやりとする。

日ごろのヤギの温厚な雰囲気からは想像できない激しさを目の当たりにして「喧嘩」を思い浮かべたくなるが、もしかしたらヤギにとっては「挨拶」なのかもしれない。角をぶつけ合っても、ふらつくことも痛みの表情を浮かべることもない。互いに角以外の攻撃はなく、しばらくして疲れてくると、相手の尻のあたりの臭いをかいで友好の仕草をみせる。

すべての雄がぶつかり合いをするわけでなく、相手がジャンプしても動きを合わせない雄もいた。2匹とも檻の中で何もせず、ぼーっと立っているだけの組み合せもあった。ヤギの御愛嬌であり場内からは笑いがもれた。








海で穢れを落とす浜下り


通常、3月3日といえば、ひな人形を飾って祝う「ひな祭り」である。女の子についた穢れや厄を人形に移して取り払うことから始まったといわれる。しかし、沖縄でも女の子の祭りではあるものの、海に入って穢れや厄を払う。行事の日付は旧暦だが、3月3日(今年は4月21日)のころには寒かった冬も終わり初夏の雰囲気に包まれる。いかにも海に囲まれた初夏の沖縄らしい行事である。

沖縄各地で催される浜下りの中でも有名なのが、うるま市の平安座島の「サングヮチャー」。当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』では次のように紹介している。

「旧暦三月三日から三日間、うるま市の平安座島では、沖縄の言葉で「サングヮチャー(※)」(「三月節句」とも「三月遊び」とも訳される)が催される。平安座の集落では最大の伝統行事だが、重々しい神事の雰囲気はない。

島外から観光客も集まり盛り上がる中日の三月四日。「トゥダヌイュー」という儀式では、漁師が用意した魚を、女性神人が銛★もり★で突き刺し、喜びを表し全身で踊る。ほかの女性たちは、太鼓や手拍子でリズムをとりながら白網を大きく張れ、一心にひけ、取り込み網ですくいあげよ」などと沖縄方言で歌う。まもなく、三線の演奏が入り慣れ親しんだ沖縄民謡になると、男たちも雪崩れ込みカチャーシー(沖縄の手踊り)を踊る。

続いて、島の人々は「ナンザ拝み」に出発する。「大漁豊祝」の旗や子供たちが担ぐタマン(フエフキダイ科のハマフエフキ)の神輿を先頭に数十人の集団が、「唐船ドーイ」などノリのよい沖縄民謡を流しながら集落の中を練り歩く(中略)行列の大半は浜辺に来ても躊躇することなく海に入り、沖合東へ1キロのところにあるナンザ岩を目指す。深いところでは腰近くまで海水につかりナンザ岩に着くと、岩の一番高いところまで上り、海の彼方にすむ神に向かって酒と重箱の料理を供え、「太平洋に棲む魚群よ、平安座に押し寄せてくれ」と祈りを捧げる」











月蝕の空と神ありし日々


4月4日は、沖縄でも皆既月食を観察できた。日ごろは人が立ち止まって夜空を見上げる光景はほとんど目にしないが、この日は多くの人々が月を眺めていた。

そういえば、立ち止まって月を見上げるなんて、どのくらいの間やっていなかったか。高校生のころは、よく月を見上げていたことを覚えている。期待と不安の日々、あり余る内なるエネルギーをどこに向けたらいいのか分からず、どこかおどおどしていた。そんなときは、月に見つめられているような気分になったのである。

電灯があたりを煌々と照らし、月の光は夜空の小さな裂け目でしかなくなる以前は、月が暦の中心であった。旧暦の時代、神に祈りを奉げる祭りの日は満月の夜である15日がよく選ばれた。月の満ち欠けに人々の関心が向いていた。


弊社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は、旧暦の時代を次のように説明している。


旧暦の仕組み
 沖縄の行事・祭りと切っても切れない関係にあるのが旧暦である。正式には太陰太陽暦と呼ばれる。中国で考案され日本では六世紀ごろ取り入れられて以来、改良を重ねながら千数百年にわたって使われ続け日本人の暮らしになじんできた。

月の満ち欠けの一周期を一か月とし、十二か月を一年としているが、一太陽年(地球が太陽の周囲を一周するのにかかる時間)に比べ十日余り少ない。そのままでは、暦の日付と実際の季節が毎年ずれることになる。そこで、およそ二、三年ごとに閏月を設け季節のずれを調整するとともに、一年をおよそ十五日ごとに「大寒」「立春」など24節気に区分して正しい季節の到来を告げている。

月に寄せる関心
夜中にこうこうと照る月は太陽と違い、日々満ち欠けを起こし、現れる時間も変わる。現代のような科学の知識がない人々は、そこに世界を動かす神秘の力を感じたとしても不思議はないだろう。狼男は月を見て変身し、月齢と犯罪の関係など月が人間の心理に及ぼす影響を科学的に指摘する声もある。

旧暦の重要な特徴は月の満ち欠けと日付がほぼ一致すること。毎月、月末から月始めは月が見えない新月またはそれに近い状態にあり、十五日前後に満月となり、月を直接見なくとも日付で月齢を推し量ることができる。電気がなく夜の闇を照らす灯火の燃料が貴重だった時代、月明かりの状態がどうかは暮らしの関心事だっただろう。また、月の満ち欠けは干潮・満潮の大小とも連動しているため、海辺に住む人や漁業に従事する人にとっても役立った」







なぜ御嶽がそこにあるのか




 沖縄に住み始めてまず気になったのが御嶽(ウタキ)である。沖縄の人々にとって聖地であり拝むべき場所であるが、私のように外から来た人間にとっては何の変哲もない場所にしか見えない。なぜ、この場所を御嶽にしたのか分からない。そうした疑問に一つの答えを示してくれたのが、仲松弥秀著『神と村』(梟社 1990年)である。

 同書によれば、御嶽とは基本的には、集落をつくった先人の骨が眠る場所であった。祖先が神となって集落を守っているのである。集落が何かの理由で移動したり、「距離的に遠い」「地形が険しい」などの理由で集落から御嶽へ行くのが難しかったりする場合、本御嶽の神を招き「通し御嶽」なるものがつくられる。この「通し御嶽」は本御嶽へ向いてつくられるため、現在の集落がどこから移動してきたか、どの集落からわかれてつくられたかという集落の歴史も浮かび上がる。また、集落をつくった先人の子孫を中心に家々も配置されているという。

 それぞれの住民の思いつきで形成されたようにみえる集落も、祖先を神と崇める篤い信仰のもとに組み立てられた精緻な世界観を内に秘めている。近現代では単なる迷信とされてきたのかもしれないが、こうした信仰によって様々な自然災害や困難を乗り越え、小さな集落が何百年も存続したのであろう。本書で紹介されている次の古老の言葉は、昔のものならば何でも懐かしく感じてしまうという論理では片づけられない重みを感じる。

「神が出現した時代は、今と比べて物もなく、金もない時代であった。だが、平和で心安らぐ社会であった」。

















一段と華やかさを増すジュリ馬




那覇市辻では3月15日、旧二十正月を祝う行事が催された。この行事の目玉は、戦前の那覇で大綱挽やハーリー(爬竜船競漕)と並び三大行事と呼ばれたジュリ馬である。色鮮やかな紅型の打ち掛けをはおった女性たちは、体の前には木製の馬首を付け、馬首に結わえた紅白の手綱を両手に持ちながら鈴を鳴らし「ゆいゆい」と軽やかな明るい掛け声をあげる。真っ青な鉢巻きの長い両端は腰の近くまで垂らされ、着物の長い袖とともに揺れ、かろやかに踊る姿はチョウの舞である。昨年は辻新思会の会館前の道で20人ほどの女性が踊っただけだが、今年は総勢100人ほどの女性が参加、3方向から会館前に集まって踊るという形をとり、一段と迫力と華やかさが増していた。

行事を主催する辻新思会の理事長があいさつの中で「ジュリは遊女でなく、辻は遊郭でない」と強調していたのが印象的である。確かに前の記事で触れたように、不特定多数の客を相手にするのではなく、ジュリは客を選ぶこともできたので、現在の風俗業とは違っていた。上流階級の社交場的な要素が強かったようである。一般的には「遊郭」「遊女」と呼べば分かりやすいのかもしれないが、地域による違いがあり、誤ったイメージを定着しかねず、どう定義するか難しいところだろう。ちなみに、最近、辻新思会の会館の前に、辻とはどんな町だったか、ジュリとは何だったかを説明する案内板が設けられている。

 当社の『沖縄の伝統行事・芸能を歩く』は戦前のジュリ馬について次のように解説している。

「二十日正月の日、競い合うように念入りに化粧し豪華に着飾ったジュリ三千人が、行列を組んで踊りながら通りを練いた。衣装はもちろん小物までよい品を選ぼうとするため、女性たちがジュリ馬に使う金額は那覇市の経済を左右するといわれた(★1)。三百年以上の歴史があるとされ、那覇ハーリー、那覇大綱挽と並ぶ那覇の三大行事とよばれた。二、三日前から離島や地方、さらには本土からも見物客が来るほどの人気ぶりだったという。

ジュリ馬の始まりは、遊郭に入り自由に会えなくなった家族に元気な晴れ姿を見せるためとも、五穀豊穣や商売繁盛によって辻が潤うことを願うためともされる」










沖縄の遊郭を内側から語る




上原栄子著『辻の華』(時事通信社 2010年)は、戦前の那覇市辻に存在した遊郭を内側から描写している。幼くして父親によって遊郭に売られた著者がジュリ(遊女)としての体験を語る。

そこに描かれる遊郭の世界が、現代の風俗と一番違うのはジュリが客を選べることだろう。客を2,3人に限定し、最終的には1人に絞る。遊郭という特定の場所に囲う愛人のようなものだろう。お金を払えば誰でも相手をして、一定時間が来たり性交渉が終わったりしたら「さようなら」の現代とは異なる。金銭の受け渡しはあるものの、金銭だけでは割り切れない愛憎や義理、人情も深くかかわっているという。

また、遊郭には男はおらず、女性だけで運営していたところも興味深い。遊郭の女主人とジュリの関係も、雇い主と雇い人ではなく親子関係に近い。たとえ、ジュリは独立したり遊郭の外の人間になったりしたとしても、時節の挨拶は欠かさないのが常識であり、それを欠くようでは恩知らずとして咎められたそうである。























粟国島のマースヤー




  

  

旧暦の大晦日から元旦にかけて粟国島(粟国村)で行われる行事「マースヤー」。今年は、2月18日夜から19日未明にかけて、村の観光協会が主催するガイドツアーに参加して見ることができた。

沖縄でも多くの地域が新暦の正月に重きを置いているが、粟国島は今でも旧正月の方を大切にしている。島の食堂も旧正月に合わせて店を閉めていた。

マースヤーは、島に11ある小字ごとに、歌や三線、踊りのグループをつくって地元の各家庭をまわり、家内安全や五穀豊穣を祈って歌や踊りを披露する行事である。旧盆に青年団が地元の家々を回ってエイサーを踊るのに似ているかもしれない。


各家の庭先で披露する歌や踊りは、「かぎやで風」「祝節」「めでたい節」「唐船ドーイ」「上り口説」など一般的な沖縄民謡が中心だが、選曲は小字ごとによって異なり、櫂を使った踊りや棒術を披露する小字もあった。衣装も小字ごとによって特色があり、普段着に揃いのはっぴをはおっただけのところもあれば、本格的な琉球風の着物をつけるところもあった。


「マース」とは沖縄方言で塩であり、「マースヤー」とは塩売りを意味する。冷蔵施設がない時代、たくさんの料理をつくる正月には、日持ちをよくする塩が大量に必要になり、年末には塩売りが盛んになったが、これに地元の芸能が組み合わさって行事「マースヤー」が形づくられたといわれる。


小字によっては現在でも、歌や踊りを披露する前後に塩のやりとりがある。歌や踊りのグループが各家に配る場合もあれば、各家がグループに渡す場合もあり、歌や踊りの最後に各家に渡す場合もある。また、まったく塩のやりとりもない小字もあり、この点についても小字ごとに違うところが興味深い。

歌や踊りのグループが家に着くと、「待ってました」とばかりに、それぞれの家は用意していた泡盛や簡単な食事を振る舞い歓待。私たちのように見学のためにグループの後を付いて回る者にも関係なく振る舞う。演奏が始まれば、家の人たちも手拍子で盛り上がる。

人と人の関係が希薄といわれる現代でも、お祝いを家庭ごとでなく地域全体で喜び分かち合う、しかもすべての家々を回って歌や踊りを披露するという重労働の伝統を協力しながら脈々と受け継いでいる。何ともうれしい気分にある。

一方、何人かのお年寄りが気になることを漏らしていた。「最近は回る家が少なくなったから早く終わるようになった。以前は朝まで回っていた」。現在、島の人口は500人に程度といわれるが、最盛期には小学生だけでも600人ほどいたそうである。自然の流れのままにしておいては、伝統は守れない時代であることを改めて感じる。







■琉球王国の正月行事■


 


那覇市の首里城公園で1月1日、琉球王国時代の正月行事「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」が再現された。


琉球国王が王府の役人や庶民の代表を前に王国の平和や安泰を祈ったり、役人らが国王への忠誠を誓い王国の繁栄を祈念したりする。色鮮やかな衣装や重々しい宮廷音楽、参加する一人ひとりの整った動きなどが荘厳な雰囲気を醸し出す。そこに我々は華やかさや憧れと同時に、妬みの眼差しや骨肉の争い、やがて訪れる悲劇や滅亡を感じるのかもしれない。

王国の再興を願う人はほとんどいないだろうが、国を問わず、王国に物語や憧れを感じる人は少なくないのだろう。王国の歴史がないアメリカで、光と闇の物語の舞台となったケネディ家が注目を集め続けたり、ディズニーが、昨年大ヒットした「アナと雪の女王」をはじめ、王国を舞台にした物語をたびたび作ったりするのも、その証しだろう。





■与那国・祖納の棒踊り■


 

1115日の離島フェアで与那国島祖納の棒踊りが上演されたが、激しい波に洗われる西海の孤島、与那国島らしく、何とも荒々しい空気でいっぱいであった。まず、早いテンポで叩かれる5人の太鼓に加え、笛や鉦の音が入り、会場の緊張感が高まる。棒と鎌、長刀と櫂、なぎなたと盾など、次々と異なる武器を手にした男たちが入れ替わり登場し力を込めて打ち合う。厄払いや場の清めという踊りの要素を残しながらも、本島でよくみられる、様式化した打ち合いというよりは、武術対決絵巻という雰囲気である。




■伊江村民俗芸能発表会■


  
        (女性の二才踊り)                    (木ぷぞ)                           (シティナ節)

村内8地区が輪番で地元の民俗芸能を上演する伊江村民俗芸能発表会が11月7日、改善センターで開催された。今年は東江上区の番である。

 特徴の一つが、女性の二才踊りがあること。二才踊りは、空手の基本を取り入れているといわれ、黒紋付きに白鉢巻きの衣装で通常男性が踊る。ところが、この日は「笠に音」や「早口説」などの二才踊りを女性二人で演じていた。男性とは違った意味の凛々しさを感じる踊りである。

 「木ぷぞ」も印象的な演目である。木ふぞとは木製の煙草入れであり、この演目では楽器を使わず、手拍子を打ったり、木ふぞを煙管で叩いたりしてリズムをとり歌う。演者たちの前には鍬など農機具が並べられており、農作業の合間に近所の仲間や縁者が集まった折に自然発生的に歌い出し、労働の疲れを癒していたのだろうと想像した。

「シティナ節」は32年ぶりに上演された演目。ほとんどの演目が、男性のみ、または女性のみで演じられるが、シティナ節は男女混合の踊りである。女性3人のきらびやかな琉装に対して、男3人は黒い布のほおかむりに黒の着物に黒い足袋と全身黒ずくめと対照的である。男が「ハーリー」と掛け声の後に足を強く打ち鳴らすと、女性がこれに「スーリー、ハーリー」と艶やかな声で応じる。大和風芸能の代表格であり、武士と女性が仲良く踊って遊ぶ姿が天下太平を表しているという。




■首里城祭で披露された伝統芸能■

首里城祭ではさまざまな伝統芸能が披露された。

 

11月1日の伝統芸能の宴では、南風原町宮平の獅子舞が上演された。獅子を毬のついた紐などでおびき出すワクヤー役は男が多いが、この日は少女2人が演じた。獅子舞は首を高くそり上げた後、すっと頭を下ろし左右に強く振る動作が印象的である。



 

11月2日には、読谷村儀間の南ヌ島(フェーヌシマ)が披露された。これまでに北中城村熱田、那覇市安里の2つのフェーヌシマを見たことがあるが、儀間と共通する点と異なる点があり興味深かった。

共通する点は、かつらを被っている、棒を持つ、の2点。全体の印象では、熱田が「荒ぶる鬼」、安里が「武芸者」に対して、儀間は「力比べの遊び」である。2人ずつが1組になって、力比べの遊びをするのを踊りとして様式化していると思えた。力が抜いた長い「ウー」と、猿が鳴くような短い「ウッ」という2つ掛け声が随所に入り、コミカルな雰囲気を添えている。最後は2人1組になって背中合わせになり、一方が相方を背中の上で一回転させながら退場し、観客の意表をつく。安里のフェーヌシマで最後に、一方が相方を逆さにかかえてトンボ返りを繰り返すのと通じるところあるかもしれない。







■名護市安和のウシデーク■


  

旧暦9月16日にあたる10月9日、名護市安和区のウシデークが安和神社前広場で催された。ウシデークとは、豊作や家内安全、子孫繁栄を願って行われる女性だけの輪踊りであり、安和区では300年ほどの歴史があるといわれる。

まず引きつけられるのは、素朴で厳粛な雰囲気が漂う歌と踊りである。楽器はパーランクと呼ばれる小型の片張り太鼓のみで、三線や笛も使わない。白熱灯のぼんやりした赤い光の下、「パーン、パーン」という少し湿ったパーランクの音と手拍子、女性たちの歌声が響きわたる。

歌は「月踊り節」から始まる。「アサギ庭の雑草は、だれがふみつけたであろうか、安和の美童たちがふみつけたのです……」(実際は沖縄言葉で歌われる)。アサギは神を招く集落の祭祀場所であり、そこでいきなり美童の足元と雑草というローアングルのアップとは、何とも神秘的な歌い出しである。その後も歌の題名が変わっても、明るくも暗くもなく淡々としっかりとした口調で歌い続けられる。

踊りも大きな振り付けはなく、抑えぎみの動作を繰り返す。左回りをしながら、拝む、押す、払う、捧げる、の手の動きを組み合わせ、時に立ち止まり、くるりと回る。衣装は年齢層によって異なるが、しっとりとした紺色の着物を基調に白、赤、紫の鉢巻きを締めるなど艶やかな出で立ちである。かつて、女性たちはウシデークのために着物を新調したので、あたりには藍の香りが漂ったそうである。

全部で14曲、10分余りの休憩をはさんで1時間半にわたって女性だけでひたすら歌い踊り続ける。集落の人々も黙ってこれを眺め続ける。電気もなかった遠い昔に、沖縄で繰り返されていた歌や踊りを見た思いがして、ある映像が頭の中に流れた。収穫が終わった満月の夜、神の力を宿すとされる女性たちが広場に集まり、永遠に循環する時間のように歌い踊り回る。祝い事としての歌や踊りの原初の姿なのであろう。

 




■節目の年だけに現れる獅子舞■

八重瀬町志多伯3年忌豊年祭

夜の舞台で荒ぶる獅子


  

9月9日、八重瀬町志多伯の豊年祭の舞台で演じられる獅子舞を見た。長いヒゲを伸ばす長老から、御神酒を受ける儀式では静かだったが、急に何かにとりつかれたように、激しく頭を振り転げ回り始めた。大きく全身の毛が揺れ、その中からかっと目を見開いた頭が飛び出る光景は、まさに荒ぶる獅子であった。

それにしても、豊年祭のプログラムを見ると、この日だけでも演目数は31と盛りだくさん。予定終了時刻は午前零時を超える。豊年祭の芸能に懸ける地域の意気ごみを感じた。



拝所を丹念にまわる道ジュネー

  

五穀豊穣や住民の無病息災を祈願する八重瀬町志多伯(したはく)の豊年祭が旧暦8月15日にあたる9月8日に催され、地域の守り神とされる獅子加那志が登場した。

志多伯の獅子加那志は300年の歴史があるといわれるが、沖縄戦で消失し1946(昭和21)年に復活、以来、人の年忌法要と同じ1年忌、3年忌、7年忌、13年忌、25年忌、33年忌の節目にあたる豊年祭に登場する。今年は3巡目の3年忌にあたる。

午後2時から、旗頭を先頭に舞台衣装をまとった踊り手たちが続く道ジュネーが始まったが、獅子が行列の主役であり、集落内に点在する拝所を巡り祈りと踊りを奉げることが中心行事という印象だった。各拝所で祭り関係者が拝むとともに、獅子にもその都度祈りと御神酒を奉げた後、獅子舞が演じられる。棒術や舞踊も披露されるが、舞踊は拝所によって演目が違う。

名護市屋部の八月踊りでも、舞台衣装をまとった踊り手たちが集落内を練り歩く道ジェネーが行われるが、屋部では獅子舞はない。拝所をたんねんに巡ることもないが、代わりに集落内の何カ所かで「稲摺節」を歌い踊る。秋の収穫を祝う行事の中で行われる同じ「道ジュネー」でも、地域によって中身が違うところは興味深い。










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